えにわ市名の由来は、アイヌ語のエエニワ (恵庭岳を指し、鋭くとがった山)という意味にあります。

エリアは東西に長く、その中央を漁川(いざりかわ)が横断し長沼町との境界部で千歳川と合流します。北部は島松川が流れており北広島市との境界。
南は千歳市に接しており、市の西部は原野と山岳になっています。
蝦夷の時代、松前藩は早くからこの地域の漁・島松地区を請負場所と定め、交易地としていました。支笏湖を水源とする千歳川の流域は漁利に富み、アイヌも多く住んでいました。
ところが、エゾマツが珍重され飛騨屋久兵衛が石狩の山林に入り事業を行うと、漁川流域は和人の往来で賑わいだし、アイヌは虐げられ崩壊をしていきました。
明治に入り、高知藩支配下となり開拓に入りましたが、すぐに廃藩置県となり引き上げました。

中山久蔵

明治4年、中山久蔵(大阪~仙台~白老)が島松沢に移住し、2年後に島松川を挟んで島松(現北広島市)に移転しています。

明治5年、東京から村上芳三郎が現茂漁橋付近に、翌年池田菊松らが入り次第に増えていきます。そうして札幌本道(現・国道36号)が開通しました。
明治9年には漁村放牧場を設置し、手狭になった手稲牧場から牛・馬を移しています。大正期には牛の飼育が本格的になり、牛乳の市販が始まりました。
明治19年、山口県から団体入植があり、彼らにより畑作中心に農業が確立されていきます。中山久蔵の開発した「赤毛種」も採り入れ作付けされました。

戦後、米の生産調整が行われましたが、米作りに恵まれたこの地の条件の下、良質米の生産と畑作・酪農・畜産の振興を図り、都市近郊農業の基盤を築き上げてきました。

白扇の滝

工業団地への企業誘致も進められ、サッポロビール工場が建設。

柏木川上流の道立水産孵化場ではサケ・マスの資源増殖を中心にバイオ・内水面漁業に関する研究も行っています。

新しく作られた恵み野地区は、住宅地化が進み札幌のベッドタウン。
恵庭市の南西部には漁川ダム湖のえにわ湖、白扇の滝、三段の滝などがあり、自然豊かな町で、恵み野では「花の街づくり」を進めています。