晩成社は、北海道開拓の志(こころざし)をもとに設立された会社です。


晩成社三人の幹部

土地開墾、農業、牧畜、造林などを目的として、1882(明治15)年静岡県伊豆国那賀郡大沢村(現、賀茂郡松崎町大沢)で同地の豪農、依田家によって結成されました。(資本金を5万円。当時の1円は、現在の4000円) 
社長は依田勉三の兄・佐二平、副社長は勉三と弟の善吾でした。

また、勉三が東京で勉学中に知り合った友人で、渡辺勝、鈴木銃太郎が幹部として参加しました。

会社結成後、開拓地選定のため勉三と銃太郎が渡道し、河西郡下帯広村(現・帯広市)を予定地と決め、1883(明治16)年5月、勉三率いる晩成社移民団一行13戸27名が入植しました。

入植地に到着して最初に行う仕事は、とりあえず寝泊まりができる仮小屋造り。
それは、棒を数本、上部を縛って円錐形に立て、その周辺を草、木の皮、葦などで覆ったものや、上部が二股になったY字形の棒を2本立てて柱とし、棒を横に渡し、それに左右から斜めに木をもたせかけて草や木の皮などで覆うものでした。
これらは、両手の指先を合わせたような形であることから「拝み小屋」とも呼ばれています。やがて、木を切り倒し、ムシロを敷いて、居間、炊事場などを作り、住まいらしくなりました。
しかし、すきま風が多く寒さが厳しい夜は、夜通し炉を絶やすことができませんでした。

ひとつ鍋

開拓初期を象徴する道具といえば、開拓小屋の炉の上に常に吊り下げられていた鉄鍋(自在鍋)です。
十勝開拓の先駆者、晩成社の依田勉三が「開拓のはじめは豚とひとつ鍋」と詠んだように、一つの鍋で全ての煮炊きをしました。