文部科学省の外局である文化庁は、地方の文化や伝統を認定する「日本遺産」に、北海道から福井県までの7道県11市町を認定しました。
北前船の寄港地で繁栄をもたらした功績として北海道は、函館・松前・江差が選ばれました。
しかし、北前船で忘れてはならない町として寿都町があります。

寿都神社

寿都町は日本海の海岸沿いにあり、西の弁慶岬から東の美谷岬まで9キロの沿岸に7つの漁港。この間に現存する神社が9、お寺が14と異常な数で400mごとに寺や神社があります。
寿都神社は1628年(寛永4)創祀の後志管内最古の神社です。遭難した筑紫の国(九州)の弁天丸が寿都湾で救出された時に、神の守護と住民への感謝から船中の弁天神を奉斎したのが始まりでした。時代ごとに船主が奉納した鳥居・錨・船絵馬が保存されています。
北海道の日本海にはニシンとともに繁栄を極めた町が多く存在しますが、寿都も明治中期ころには2万人を越えていたといいます(現在3600人)。
明治36年の漁獲量は大型トラックで、1万4900台となり、神社仏閣が建ち、盛大な祭りで賑わった町です。さらに大正時代にはニシンを運ぶために鉄道まで作られました。

町の開基

追分記念碑

町の開基は江戸時代1669年(寛文9)ですが、1604年には松前藩の商場として「オタスツ」「スツツ」「イソヤ」の地名が残されています。
町の北部にあたる歌棄(ウタスツ)には、この地域を治めた佐藤家の邸宅が保存されています。
源義経の家臣、佐藤継信の末裔が明治時代に建てた漁場建築で、洋風六角形の明り取りや和風の切妻屋根で釘を使っていません。北海道有形文化財に指定されています。(佐藤継信は源平屋島の合戦で義経めがけて飛んできた矢を身代わりになって受け、戦死した忠臣といわれていいます)

1804年(文化元年)の記録によるとアイヌ人口は400人ほどおりましたので、寿都には義経伝説が多く伝えられています。
また、佐藤家の向かいに「追分記念碑」があります。
江差追分の歌詞「忍路(オショロ)高島およびもないが、せめて歌棄、磯谷まで」と記された碑で、ニシンを追って北上した男たちを追いかけた女性の愛情を歌ったものです。
この詞が生まれた背景には、1688年松前藩が出した神威岬から北への婦女子の通行禁止令がありました。

このため寿都地方をニシン漁の拠点とし、土着するものが増え人口も増加しました。大漁のニシンは多くの北前船で本州に運ばれ、本州からは米や日用品などが運び込まれていたのです。寿都の町には、新潟県の佐渡や能登半島など、日本海側からやってきた先祖を持つ人がたくさん住んでいます。