室蘭から森町をお椀の淵と考えれば、豊浦町の礼文華峠あたりがお椀の底に当たります。この太平洋の内浦湾を「噴火湾」を呼ばれています。
しかし、いつのころから誰が噴火湾と呼んだのかを知る人は少ないでしょう。
(画像は「道の駅あぶた」からの有珠山です)

プロビデンス号の来航

ペリーの黒船艦隊が箱館に来航したのは1854年のことです。
ところが、寛政8年(1796)にイギリス海軍の探検船が松前藩領下の絵鞆(室蘭)に来航していました。
ウィリアム・ロバート・ブロートン船長が率いるプロビデンス号(バーク型帆船)です。

外国船が日本近海に姿を見せ始めたのは、ろうそくの原料となるクジラの捕鯨や金・銀の探検のためでした。特にコロンブスのアメリカ大陸発見(1492)以来、東洋を訪れる船も多くなり、マルコポーロの「東方見聞録」の中に「日本という大きな島は、黄金が無尽蔵なまでに埋蔵されている」と書かれ「黄金の島ジパング」となりました。

プロビデンス号は、その後宮古島沖で沈没しますが、スクーナー型帆船のプロビデンス号として翌寛政9年(1797)も来航し、アイヌの人たちとも交流し、港内の測量を行います。

ブロートン船長は、故国に帰ってから著書「北太平洋探検の航海」で、北海道に「エンデルモ(エトモ)・ハーバー」という天然の良港ありと、室蘭港の良さを広めるとともに、有珠山や駒ヶ岳などの火山群を見て、この湾を「ボルケイノ・ベイ」(噴火湾)と名付け、1804年に初めて世界に紹介しました。