士別のはじまり

川西の風景

北海道第二の長流「天塩川」と、その支流剣淵川の二つの流れがもたらす豊饒な天恵を併せもつ士別盆地。
明治30年9月に士別盆地に入植した人がおります。回漕を業とする新保寅吉が第一歩をしるしたのが開発のはじまりでした。

開拓はその二年後に入植した屯田兵によって本格化します。
鉄道が士別まで開通したのは屯田兵入地の翌年、明治33年でした。
士別の屯田兵は、屯田兵制度の最後にあたり、剣淵村と士別村に置かれました。剣淵村の第三中隊、第四中隊、士別村の第五中隊で第三大隊を編成したのです。
士別屯田を編成した第三大隊五中隊の兵員は、28県から応募した100名をもって編成されます。

内地各県からの応募者は神戸に集結。
第一陣は近畿・四国・九州・裏日本出身の人々で、明治32年6月18日東都丸で神戸を出発、途中尾道、門司、酒田など数カ所に寄港して、小樽に着いたのは6月28日でした。

新保寅吉

2年前に入地していた新保寅吉は明治15年石川県より渡道、空知郡奈井江に居住し雑貨商を営んでいました。剣淵・士別に屯田兵が入地することを知り単身で剣淵村のパラガラウスに移ってきました。
屯田兵屋の建築が始まることを知り、資材の輸送を引き受けます。
名寄付近に多く住んでいたアイヌ人を雇い丸木舟を作らせて、剣淵から資材、貨物などの回漕を行いました。

入地間もない士別屯田兵村

屯田兵屋建築には北海道庁技師の佐々木五郎治があたり、入地予定地実査区画を設定します。工事は大倉組が請負、札幌の阿部久四郎・伊藤亀太郎・遠藤為吉などが下請し、明治31年7月に着工。
多数の大工・鳶夫などが入地し、翌年32年6月に完成。7月1日に屯田兵とその家族を迎えることになりました。

明治32年に屯田兵が入地し、士別市街地周辺の開拓が進みますが、一歩外に行くと未開の森林帯が続いていました。
政府は30年に制定した国有未開地処分法により、次々と土地の開放を実施。
原則として一戸五町歩の土地が無料で貸し付けられ、5年間で開墾に成功すると、検査を受け無料で付与されます。このため国の技師が測量に多く従事していました。