ましけ町名はアイヌ語のマシケ(カモメの多い所の意)の説があります。

元禄時代(1688~1703)に増毛場所が開かれ、その後、宝暦年間(1751~1763)能登の商人・村山伝兵衛が場所請負人となり、和人の定住が始まります。
天保年間(1830~44)に漁民が許可され、道南から入り漁業集落が形成され「千石場所」とよばれるニシン漁の好漁場でした。

厳島神社

安政3年(1856)、蝦夷地を外国からの侵略から守るため、西蝦夷地と樺太の警備を幕府から命じられた秋田藩は「秋田藩増毛陣屋」を置きました。
(その跡地に総合交流促進「元陣屋」が建てられています)

秋田藩領となった増毛は、農民や職人、遊芸者まで入り込みましたが国政の変化で兵力の分散、地元の災害などで財政困難となり少数の残留希望者を残して引き上げました。
明治19年、北海道土地払い下げ規則が制定され、これまで長く増毛に住み漁業・商業を営んで富を築いた者が土地に投資し払い下げられた土地を使用人に耕作させるようになりました。

ニシンの街として栄華を極めた増毛は、明治から大正、そして昭和初期の歴史を駅前通りに残しています。

今は昔の「ニシン物語」遙かな想いは、この建物たちから語り継がれていきます。
最盛期の増毛は、商人の活躍もめざましく、網元や商人が築いた財は、惜しみもなく豪邸に注がれ、絵師や書家、文筆家らが立ち寄るほどの勢いとなり街が飛躍する原動力になりました。数々の時代を通り過ぎてきた木造建築物や重厚な石造りの倉庫群は、歴史を語りかけてきます。

山形出身の藤原筆吉は明治6年に増毛に入り、商業家の小野寺富三郎に仕えていましたが、明治20年に暑寒沢に入植しリンゴ栽培をはじめ増毛リンゴの基となりました。

国稀

明治8年に呉服・雑貨商の営業を始めた本間泰蔵は明治15年に「醸造営業の儀願」を提出し醸造業もはじめます。泰蔵は漁業・海運業なども手掛け明治・大正期には天塩国第一の豪商といわれました。

名峰暑寒別岳の伏流水を使った地酒「國稀」は最北の造り酒屋として今日も営業されています。