大関名寄岩

名寄市の由来はアイヌ語の「ナイオロプト」(渓流に注ぐ口)からと言われています。名寄川が天塩川に注ぐ様子をいったものです。

名寄という地名を全国に広めた名寄市出身(生まれは小樽市)の力士がおりました。本名は岩壁静雄(1914年-1971年)。
明治33年、山形県東栄村(旧藤島町、現鶴岡市)から開拓団として集団移住。

初土俵以来44場所を努め、40歳で引退。
最高位は大関で同じ立浪部屋の双葉山、羽黒山とともに「立浪三羽烏」と称されました。

名寄岩の人気が沸騰したのは2度目の大関陥落後で、40歳で金星と敢闘賞を獲得、関脇まで返り咲いたのです。その劇的な土俵人生は「涙の敢闘賞」として舞台化、映画化もされました。

「大関名寄岩」の銅像は名寄市スポ-ツセンタ-前広場に建立されました。