旧熊石町

大成区からポンモシリ岬を越えると「熊石町」に入ります。熊石町は平成17年に太平洋側(噴火湾)にある八雲町と合併をしました。そのために、檜山振興局は日本海沿岸を分断する状態で、北部のせたな・今金と乙部・江差の南部に二分され飛地となっています。
 
ポンモシリ岬を越えると関内ですが、この地は元禄四年(1691年)に番所が設けられていたといいます。
江戸時代の初期には和人地(わじんち)という北海道における地域区分が存在していました。主に蝦夷と呼ばれるアイヌが居住する蝦夷地に対して、和人が居住する渡島半島南端の一帯を指していました。

熊石の鰊漁は松前藩の経済基盤を支える産業で、米のとれない蝦夷地にあっては重要な資金源でした。更に、初期の松前藩の収入は、アイヌとの交易にあったため和人地に境界を引き往来を取り締まっていたのです。

そのため、熊石というのは和人地とエゾ地の境界地で当時の日本国最北の地もであったのです。 
鰊漁による蝦夷地の繁栄は江戸や大阪等にも北前船をとおして伝えられ、熊石にも当時の新しいたくさんの文化が伝わってきていました。
しかし、松前から鰊漁が江差、乙部、熊石と北上し、とうとう鰊漁が慢性的不漁
に陥ると、蝦夷地に和人が北上し漁労に出るようになっていきます。