にき町名の由来は、この地に最初に開拓に入った仁木竹吉にちなんで名づけられました。

稲穂峠

国道5号を余市から仁木を通り共和町に入る時に「稲穂峠」があります。
今は稲穂トンネル(1230m)で峠を越えられますが、蝦夷の時代は、春の硬い雪時期でなければ通行できない難所でした。

アイヌがイナウ(御幣)を持って神に祈りながら通ったことから「稲穂」とつけられました。
1809年に刈分け山道を開削、その後1856年に道幅を2間とし、翌年にはヨイチ運上屋によって峠を越える人々のためにルベシベ通行屋が設けられました。

江戸時代から往来のあったこの地ですが、本格的に開拓が始まったのは明治12年に仁木竹吉が101戸・360人を引き連れて徳島県から移住し仁木村を設けてからです。

更に旧長洲藩主毛利元徳が千㌶の払い下げを受け、家臣であった栗屋貞一を開拓委員長に任命し開墾を進め、毛利の祖先の名をとって大江村と命名。
明治15年に移民団19戸98人、翌16年18戸138人、17年17戸117人が入植。
病院や学校も設置し大江地区の発展となります。
明治28年には農地開放を行いました。
昭和39年に大江村から仁木に改称し、町制を施行しています。

フルーツの里

国道5号に果樹の店が並びます

基幹産業は農業で大江地区では米作り、仁木では早くからリンゴの栽培と稲と林檎が産業の二つの柱でした。
20世紀後半になるとサクランボ、ブドウも加えた果樹の比重が高まります。

仁木町は北海道一のサクランボ産地で、ぶどう、りんごなど果実の産地です。
国道5号には観光果樹園や農園が並び「フルーツの里」をうたい文句に観光客を集めています。