明治40年、蠣崎知二郎の調査の結果、雑穀農業も可能な土地ということで特定地制度が設けられました。特定地制度とは、自家の開拓者のために無償で貸付し、成墾後付与するということです。美幌から植村菊治一家が試験的に入地した人が、有望であることを広く知らしめました。

明治30年に標津駅逓所取扱人であった芦沢という人が、俵橋地区に百万坪を出願し牧場経営を開始。また、明治37年には藤野トク子が現川北に藤野牧場を開設しました。

明治44年、徳島県人が俵橋地区に、静岡県人と徳静団体を率いて移住します。
稲作も試されましたが、冷害で振るわず、大正期から本格化した酪農は戦後乳牛を主体とした主畜農経営を進め、さらに肉牛も導入しています。

開陽台

開陽台から

武佐岳の麓にあたる標高271mの台地、開陽台からは北海道の雄大さを実感できます。室蘭の地球岬では水平線が丸く見えますが、ここでは地平線が丸く見えるのです。
知床連山から国後島、眼下には根釧台地が広がり、格子状防風林も見渡せます。

中標津空港から車で15分ほどですが、ここまでの道を「開陽台への道」と言われています。
西側に広がる開陽台牧場は、東京ドーム約100個分の広さがあり、草地に約1000頭の乳用牛を放牧しています。
開陽台に向かう北19号ロードは沿道の牧歌的風景とともに、ライダーにとって最高のシチュエーションで、ミルクロードと呼ぶようになりました。