日高拓殖鉄道ー後の日高本線

苫小牧から浦河を経て十勝の広尾に達する鉄道は明治26年には道庁鉄道部によって調査が行われていました。しかし、財政上の問題で工事には至りませんでした。

その後、鵡川、沙流川上流の木材搬出を図った三井物産が苫小牧ー鵡川間を敷設し、大正2年にはこれが苫小牧軽便鉄道となって一般運輸営業となりました。それ以前に鵡川ー佐瑠太(現在の富川)間に延長されましたが、それ以上の延長はありませんでした。

大正11年1月、浦河、門別、静内、三石の有志が強力な運動を展開します。しかし、国鉄は全く見込みがないことがわかり、佐瑠太(現在の富川)ー浦河間の蒸気を動力とする鉄道敷設の出願を決定しました。
大正11年2月、王子製紙も加わって資本金200万円の日高拓殖鉄道㈱が設立されました。
工事は大正12年8月、佐瑠太(現在の富川)ー厚賀間(21.1キロ)からはじまり翌年の8月には完成、9月から営業を開始します。
次いで翌14年9月には厚賀ー静内間(16.4キロ)の工事に着手、大正15年11月に完成。この沿線は木材と水産物の出荷が多く、営業成績は好調でした。

ところが、この路線は改正鉄道敷設法の予定線になっていたので、日高拓殖鉄道の敷設免許下付のころから将来の買収が予想されていました。このため免許下付時に一般線軌間に拡幅できるように命じられ、路線用地などは拡張工事の準備がとられていました。
予想通り、昭和2年2月の通常議会に日高拓殖鉄道と苫小牧軽便鉄道の買収案が提出されました。目的は日高沿岸の漁業と山林の開発が主で、さらに様似方面への延長でした。
買収は昭和2年8月で、それ以後、苫小牧ー静内間は日高線と改称されました。
静内ー三石間は昭和8年12月、三石ー浦河間は同10年10月、浦河-様似間は昭和12年8月に開通し、これで日高線144.4キロが全線開通となりました。

広尾ー様似間について、失われた風景「観光広尾」に興味深い内容があります。