札幌市街馬車鉄道

明治35年5月、札幌石材合資会社は「穴の沢(のちの・石切山)」産出の石材を札幌停車場横の石材工場に運搬する目的で、山鼻村を経由して南一条西十一丁目を横断する平岸村ー穴の沢ー札幌停車場間の馬車鉄道の特許を出願しました。
ところが、札幌区会では電気鉄道の将来構想があり挫折。

今度は路線を穴の沢ー山鼻間に短縮し、石材と農産物の運搬で再提出。
明治37年、社名を札幌石材馬車鉄道合資会社に改称し、明治40年には資本金30万円の株式会社に改組し、更に定款に「乗客および貨物の運搬を含む」ことが付け加えられました。

明示40年7月、ようやく穴の沢ー山鼻間11.5キロの特許が下されました。
翌年4月から工事が始められ、明治42年2月に完了。客馬車は定員12名、一日3往復の運行でした。
営業は順調で明治43年には山鼻から延長し、石山通りを北進して北五条西十一丁目に出て、北五条通りを東へ進み札幌停車場前に達しました。その後も特許を得て、札幌停車場ー中島遊園地、南一条西十五丁目ー東二丁目、札幌停車場ー苗穂停車場など市街に路線が拡大し、大正元年8月には増資するとともに社名を札幌市街馬車軌道に改めました。

開道50年記念博覧会
大正7年に開道50年記念博覧会が札幌で開催されることになりました。
馬車軌道をこの博覧会に向けて、石山線を除く全線を電車化することになりました。社名も札幌電気軌道㈱に改称します。
電車軌道の特許を得たのは、開催の五か月前。4月の雪解けと同時に馬鉄軌道の撤去が始まり、車両はイギリス製を手配していましたが、世界大戦中のため海上輸送は危険となり急遽名古屋鉄道から24両を購入しました。
電車開業は博覧会開催の12日目の8月12日となりましたが、翌8年5月から苗穂線、南一条線、円山線など年々路線を延長していき、営業収益も伸びていきました。

ところが、大正13年12月、札幌市議会が買収して市営にかるという議案が、札幌市議会で満場一致で可決されます。
昭和2年11月30日で札幌電気軌道は消え、12月1日から札幌市営となりました。
市営化後も北五条線、鉄北線、豊平線と延長は続き、人口増に伴い輸送人員も大幅に延びていきました。

しかし、昭和期になって本格化してきた不況は電車事業にも影響を与えるようになり、徐々に冬の時代に入っていきました。