明治43年4月に公布された軽便鉄道法は、地方交通の安上がりな速成をめざした鉄路でした。軌間寸法や勾配の制限も穏やかで出願手続きも容易でした。
ところが、会社や事業が主体となるため敷設をめぐって係争が絶えませんでした。

東倶知安軽便鉄道は叶わぬ夢で終わりましたが、明治43年に再び倶知安村で新たな動きがでてきました。倶知安村から明治43年に分村した東倶知安村(現在の京極)で鉄鉱床の動きが活発になってきたのです。
東倶知安村市街の東方のワッカタサップ(脇方)川上流で鉱床が発見されたのは明治31年でしたが採掘にはいたりませんでした。それが世界大戦による鉄鉱石市況の好景気で三井鉱山が鉱区の買収交渉を進めていたのです。

そうして、鉄鉱山ー倶知安間に鉱石輸送のための軽便線が敷設されることになりました。実地測量は大正5年1月から一か月にわたり行われました。東倶知安村では停車場の位置について陳情を行いました。

東倶知安村(現在の京極)は、旧讃岐丸亀藩主の京極高徳子爵が明治30年に700町歩の無償払い下げを受け、小作人60戸を入植させて京極農場を開いたのがはじまりでした。この京極農場が市街地でした。

請願が受け入れられて大正6年8月、倶知安ー京極市街地間13.4キロが軽便鉄道で着工されました。市街地から鉄鉱山間7.5キロは、鉱山の貨物専用線として鉱山会社の自費でした。

東倶知安村では11月15日の開通式を目前にした10月14日に村民大会が開かれました。大会で停車場名を「京極」にしたのは農場管理人や村長、村会議員の不当な専断行為なので、彼らを除外した村民自治による開通式と開通祝賀会の実施が決議されます。
これはプロレタリア作家小林多喜二の小説「被害倶知安行」の舞台となりました。

11月15日の開通から、京極軽便線となり、上下三往復の客車混合列車が運行されました。
大正9年7月に京極ー鉱山間の鉄道敷設が行われ、停車場名は「脇方」で、鉄鉱石は小樽、岩見沢経由で北海道製鉄と合併した輪西の日本製鋼所へ輸送されました。