天塩線とは、音威子府から天塩川に沿って天塩の中央を縦断し、先に開通していた宗谷線(のちの天北線)の稚内に連絡する地方線のことです。

音威子府以北の線路選定については、北見国経由か天塩国経由かが議論されましたが、土壇場で北見国経由に先を越されました。
しかし、政友会の東武衆議らの紹介で請願を続けており、大正6年3月にようやく着工が決定します。

大正6年3月から音威子府川橋梁より工事が始まりましたが、世界大戦の影響を受けて、工事は延々と進みませんでした。
工事は全区間を8工区に分け、そのうち4工区が音威子府ー誉平(ぽんぴら・現在の天塩中川)間は、天塩川の流域に沿っているため橋梁や護岸に多くの時間を費やしました。絶壁の岩山を掘って進むため多くの犠牲者を出します。
各所に土工部屋が設けられて過酷な強制労働が日常的に行われ、天塩川に溺死体が後を絶たず、逃亡者も多かったといいます。
音威子府の真覚寺境内に殉難者の名を刻んだ「天塩線工事物難者の碑」が建立されました。工事を請け負った栗原組が大正10年に建立したもので、大正6年から大正13年間に亡くなった土工夫141名。大正6年の犠牲者が33人と突出しているのは、音威子府渓谷と神路渓谷が地形的に見て難工事でした。

大正15年9月に最後の兜沼ー間寒別間が関通し、天塩国経由の音威子府ー稚内(現・南稚内)間が全線関通しました。
北見国回りと比べて、約35km短縮でした。

昭和5年4月に天塩線は宗谷本線、これまでの北見国経由の宗谷線は北見線と改称されました。更に、昭和36年4月に北見線は天北線と改称されます。

昭和3年12月には稚内ー大泊間の稚泊(ちほく)連絡船待合所まで線路が延長され、そこを稚内港としました。そうして、稚内桟橋が正式に開設された昭和14年2月、稚内港が「稚内」、稚内が「南稚内」とそれぞれ改称されました。

写真は、音威子府にある天塩線工事殉難者之碑