札沼線ー現・学園都市線 その2

札沼線が決まった当時、「東武鉄道」「あずま鉄道」と称されたのは東武衆議院議員の尽力があったためでした。

工事は昭和2年10月から沼田側から、桑園側は昭和4年7月からとりかかることとなりました。
しかし、新十津川村であらたな問題が起きました。東武の出身地である新十津川村は政治意識が強く、それだけに政友会と立憲民政党を支持する者に分かれ、対立も激しかったのです。駅の位置と数、そうして名称をめぐっての対立が村議会に持ち込まれて政治的紛争になったのです。
結局、村内設置数と、そのいずれかを新十津川駅にするかの問題で札幌鉄道局ら持ち込まれました。鉄道局長は、設置駅は上徳富、石狩橋本、中徳富、下徳富の四か所で、新十津川の名称は認めませんでした。
村内の上徳富から下徳富間10.6キロの区間に、四駅が設けられたわけです。

桑園側も、桑園と苗穂の住民の間で分岐点の誘致運動が起こっていました。札沼線の敷設によって、明治44年から営業をしていた札幌軌道(札幌北7条東一丁目ー茨戸間)が平面交差となるため廃止されるため、その見返りに苗穂駅分岐を請願していました。
また、札幌実業組合連合会(会長は古谷辰四郎)からは、札幌停車場を発着点にという請願でした。
このため、中々決着がつかず、昭和3年にようやく桑園駅分岐に決定し、翌4年7月に着工となりました。

最大の工事は、石狩太美ー篠路間に架かる全長1074mの石狩川橋架でした。
運輸営業は各工区の竣工に分けておこなわれ、線名も石狩沼田ー浦臼間を札沼北線、石狩当別ー桑園間を札沼南線と称しましたが、昭和10年10月の全線開通と同時に札沼線と改称されました。

石狩沼田-桑園間113キロの所要時間は、4時間30分前後でした。
ところが、石狩橋本本駅と函館本線の滝川駅までが石狩川を挟んで3キロでした。このため中徳富(現・新十津川)ー桑園間を除いた区間は乗客も貨物の発着が少なく閑散としていました。
そこに目を付けられ、樺太東海岸北方の気屯(けとん)線と古屯(ことん)線の敷設に転用するため、石狩沼田ー石狩当別間を昭和18年10月以降休止し、レールが撤去されました。

戦後、復元運動がおこり、昭和21年12月10日の石狩当別駅 – 浦臼駅間を皮切りに、1956年(昭和31年)11月16日までに全線で運行を再開。
しかし、新十津川駅 – 石狩沼田駅間がいわゆる「赤字83線」として昭和47年6月19日に廃止、国鉄分割民営化後にはJR北海道により北海道医療大学駅 – 新十津川駅間が「当社単独では維持することが困難な線区」とされ、2020年(令和2年)5月7日付で廃止されました。