天塩線ー現・宗谷本線

天塩線とは音威子府から天塩川に沿って稚内につながる地方線のことで、後に宗谷本線になります。

音威子府から稚内までは、北見国経由に先を越されて宗谷線(後に天北線)が敷設されていました。しかし、その後の政友会の東武衆議らの紹介で請願が続けられ大正6年3月にようやく着工されることになりました。

工事は音威子府橋梁から着手されましたが、世界大戦、関東大震災で工事は延々と進みませんでした。
また、天塩川沿いの工事は、絶壁の岩山を掘り、うがつという難工事の連続で多くの犠牲者を出しています。土工部屋が設けられて過酷な強制労働で天塩川に溺死体が後を絶ちませんでした。逃亡者も多かったといいます。
後年、音威子府村真覚寺境内に殉難者100人の名を刻んだ「天塩線工事物難者の碑」が建立されました。

大正11年11月、音威子府ー誉平間、翌12年11月誉平ー問寒別間が開通し営業開始。大正13年6月、稚内(現・南稚内)ー兜沼間が開通。残る兜沼ー問寒別間は大正15年9月に開通し、これで音威子府ー稚内間が全線開通となりました。北見国浜頓別経由と比べると21.6キロの短縮でした。

昭和5年4月に天塩線は宗谷本線となり、北見国経由の宗谷線は北見線と改称。昭和36年4月に北見線は天北線と改称されました。

昭和3年12月には稚内ー大泊間の稚泊連絡船待合所までの線路が延長され、そこを稚内港と称しました。そして、稚内桟橋が正式に開設された昭和14年2月、稚内港が「稚内」、稚内が「南稚内」とそれぞれ改称となりました。