長輪線(おさわせん)ー現・室蘭本線

「ちょうりんせん」と覚えていたのですが、「おさわ」が正解でした。

長万部ー室蘭間の鉄道建設に注目されだしたのは、後藤新平と大浦兼武が明治42年に相次いで来道してからでした。(鉄道院総裁と農商大臣)
これに力を得て函館が手を上げますが、室蘭・小樽も加わり三つ巴の戦いとなります。

流れを一変させたのは明治43年2月の豪雪でした。札幌発函館行きと函館発札幌行きの主要直通列車が、同時に一昼夜に渡って倶知安付近で立ち往生となり、根本的な路線改良の必要となりました。
急こう配の多い長万部ー小樽間の強化には大工事が必要で、予算上から不可能。
それに比べて長輪線は平坦な地形を通るので、長万部ー輪西間を海岸沿いに敷設すれば、小樽回りよりも7.2キロの短縮となります。しかし、不採決でした。

大正7年9月に事態は一変しました。政友会の原敬内閣が成立し、12月には長万部ー輪西間が追加となります。
大正8年11月から長万部ー静狩間の工事がはじまり、大正12年12月に長輪西線として営業が開始となりました。
輪西方面は大正10年4月から測量を開始し、11月には輪西ー黄金蘂(現・黄金)間の線路選定を終えて工事着手。輪西(東室蘭)ー伊達紋別間の開通は大正14年8月で、長輪東線として営業が開始されました。

長輪線の最大難所は静狩ー虻田間で、大正12年4月に静狩方面から開始されました。ここには延長2720mの礼文華山トンネルや1547mの第二静狩トンネル、1506mの辨辺トンネルと連続するトンネルの掘削がありました。中でも礼文華山トンネルには5年6か月を費やする難工事でした。

こうして、長輪線77.2キロが全通したのは昭和3年9月。なお、昭和6年4月に岩見沢ー輪西間と合わせて室蘭本線と改称しました。