明治元年(1868)旧10月20日(幕末)、徳川家臣・榎本武揚は軍艦8隻にて将士役3000名を率いて鷲ノ木村に上陸、 22日に先発隊が官軍の攻撃を受けて応戦したため、土方歳三と大鳥圭介の2隊に分かれて一路、箱館を目指しました。

松前藩はこれらの動きに備えて、現在の厚沢部町に新規に構築しつつあった館村新城(館城)に、藩主および藩の主力は移動していました。

11月1日、榎本軍の軍艦蟠竜が松前を砲撃。
松前藩は奇襲するも撃退され、11月5日に松前に土方歳三を総督とした彰義隊・額兵隊・衝鋒隊などからなる700名が搦手門から攻めてきました。
家老蛎崎民部を中心に五百名あまりが籠城した松前城は、その構造が搦手門からの攻撃をほぼ想定しておらず大砲で抵抗しますが数時間のちに開城しました。
藩兵は城下に火を放ち、江差方面へ退却。

一方、榎本軍の別働隊500名が藩主松前徳広の逃れた館城攻略に来襲。
しかし、藩主らは12日に西在熊石村に避難済みで城には60名ほどが籠っていただけでした。
11月15日午前9時頃攻撃が開始され、1時間ほど激しい銃撃戦が続いた後、表門の下の隙間から侵入した旧幕府兵が門を開け、兵が乱入し落城。

22日、追撃する榎本軍が熊石村に到着すると、徳広ら男女60余名は既に本土の弘前藩へ落ちて行った後でした。残存の藩士ら300名が榎本軍に投降。

江差に逃れた松前藩軍を攻めるために、榎本軍の主力軍艦開陽丸が派遣されましたが、江差の松前藩兵は既に退却済でした。
同夜、天候が急変し、風浪に押されて開陽丸は座礁。
開陽丸は数日後に沈没。これにより榎本軍は頼みの海上戦力を大きく減らすこととなり、新政府方の軍の上陸を安々と許すこととなります。

松前徳広らは11月24日には弘前藩領の薬王院に逃れますが喀血して倒れ、11月29日に死去。享年25歳。
明治3年(1870年)10月、長勝寺に仮葬した遺骸を菩提寺である松前の法憧寺へ改葬されました。長男・修広が幼くして松前藩主を継ぎます。

写真は榎本軍が上陸した現在の森町鷲ノ木で公園になっています