「屯田兵」という制度は元々日本のものではありません。

「屯田」という名は中国からきたもので、漢の武帝が中国の西域地に田卒という名の兵士を置き、その地に駐屯させ外敵を防ぐ「屯田」の設置をしたことに始まります。

また、帝政ロシア時代のコザック兵は有名で、ロシア領内の辺地の守備と地方開発にあたっていました。
特に、北海道に本格的に屯田兵を設置するにあたっては、後々初代第7師団長となる永山武四郎がロシアでコザック兵の制度を調べ、これを参考にして屯田兵拡大の具体策を立てています。
明治21年(1888年)6月にロシアより帰国した永山が、屯田兵本部長を兼ね
つつ北海道庁長官に就任すると、屯田兵の改革・増設計画が急速に進みました。

しかし、屯田兵制度は、明治611月、北方警備と北海道開拓を目的とした黒田清隆開拓使次官の上表文が允裁を受け、翌7年「屯田兵条例」が作られたことに始まります。
その条例に基づき、後に北海道全体で37の屯田兵村がつくられることになるのですが、その先鞭といえる日本初の屯田兵村が琴似でした。