幸田露伴句碑ー余市町

『五重塔』などで知られる文豪幸田露伴は、明治18年7月から同20年8月までの三年間を余市水産試験場近くにあった「余市電信分局」で電報の収受をする電信技手として働いていました。

幸田家は徳川家に仕えていましたので明治に入り生活は苦しく、露伴は自活の道を求めていました。東京芝汐留の電信修技学校にまなび、18歳の時に余市に赴任を命じられました。
東京では、新しい文学が胎動しており赴任先の変更を申し出るも許されず、とうとう明治20年8月25日、意を決して余市を脱出します。

「眼前に刺激物があり、欲はあるがお金はない、希望はあるが望みは薄い、よし突貫(一気にやり遂げること)してこの逆境から抜け出そうと決心した。」

これは露伴の文学への夢が捨てられず、任期途中に職を捨てて東京へ向けて脱出した、氏の『突貫紀行』の意訳です。『突貫紀行』によると脱出行は8月25日の朝、小樽に向かいました。宿をとった小樽の夜、市中は七夕祭りがにぎやかに催され、さまざまな形をした大小の行燈行列が練り歩いていました。
翌26日朝、枝幸丸に乗った露伴は小樽を出帆し岩内港に停泊、27日寿都港、28日函館港に到着し、同日午後に「はばかる筋の人」(電信局の関係者か)に捕えられて様々に説得されました。しかし「頑として屈せず、他の好意をば無になして」函館にとどまります。湯の川温泉や函館市内に9月10日まで滞在した後、北海道を離れて東北へ渡ります。青森、盛岡、岩手、福島を経て東京に着いたのは同月29日のことでした。
この脱出行の途中で得た句「里遠しいざ露と寝ん草枕」から露伴の名前が生まれます。

水産試験場敷地内にある石碑「文豪幸田露伴句碑」は昭和31年に余市郷土研究会によって建立されました。そこには「塩鮭のあ幾と風吹く寒さかな(からざけのあぎとかぜふくさむさかな)」の句が刻まれています。