鹿の子百合の碑ー岩見沢市北村

北村は岩見沢市の北部にあり、月形町に通じています。2006年3月27日、栗沢町とともに岩見沢市に編入されました。
旧北村は、岩見沢の北にある村という意ではなく、1893年に同地に農場を開設した北村雄治の「北村」から取られた村名です。名付け親は、吉田松陰門下で内務大臣の品川弥次郎です

明治43年(1910年)の五月、札幌から21歳のお嫁さんが旅立った。江別駅で下車して北海道庁命令航路の外輪船(上川丸)で石狩川を遡り、監獄波止場の手前にあった狐森波止場で下船して北村勤のもとに嫁いでいきました。
彼女は石川啄木の処女歌集「一握の砂」のなかの「忘れがたき人々」に読まれた橘智恵子です。(道道6号線になります)

碑は三つの柱・になっており、右側に啄木の短歌、左側の「鹿子百合の碑」には次のように刻まれています。

啄木の歌集「悲しき玩具」碑に刻まれている歌

     石狩の空知郡の牧場の
     お嫁さんより
     送り来しバタかな

鹿子百合の碑

「薄幸の歌人石川啄木があこがれた橘智恵は北海道庁立札幌高等学校を卒業後補助科に進み、1906年(明治39)年3月函館区立弥生尋常小学校訓導となった。
翌40年6月代用教員として採用された石川啄木は、智恵を「真直ぐ立てる鹿子百合」にたとえ、美しい同僚の存在に強く心ひかれるものかあった。不幸にも同年8月の函館大火によって職を失った啄木は、智恵の下宿先を訪れて処女詩集「あこがれ」を贈り、札幌へと旅立っていった。//

(智恵は)札幌農学校で兄の学友であった若き牧場主北村勤のもとへ嫁ぐことになり、明治43年5月石狩川を汽船で遡って、空知郡北村の北村農牧場に来たのであった。//

のちに「空知ホルスタインの父」とたたえられる夫と共に、多忙な毎日をおくっていた智恵は、啄木が東京で肺を患い、栄養もままならない貧困の生活をおくっていることを風の便りに聞き、当時高価で入手難だったバターを、夫の同意のもとに、歌集へのお礼の気持ちも込めて、かつての同僚に贈った。

1922(大正11)年10月1日、智恵は産褥熱のため、愛する夫と6人の子を残して、空知郡岩見沢町の岩見沢病院でこの世を去った。満33歳であった」

                1999年10月 北村歌碑建設期成会