鶴田知也文学碑ー八雲町

明治35年、福岡県小倉市大坂町(現在の小倉北区)に高橋乕太郎、アサの三男として生まれ、明治42年、鶴田和彦・ミヨの養子となり鶴田姓になりました。

大正11年、20歳の時に山越郡八雲村(現八雲町)出身の真野万穣の紹介で八雲を訪ね、徳川牧場技術指導員らと親交を結び、様々な仕事に就きながら同地に半年間滞在します。
「八雲は私の魂の故郷です」と言うほどに、八雲が気に入りました。

出世作の「コシャマイン記」は北海道を舞台にした作品としては芥川賞第一号で、昭和11年の第三回目でした。
亡びゆくアイヌ民族の運命を叙事詩ふうに描いた小説でした。主人公のコシャマインは、アイヌ民族三大蜂起の一つで1457年に起きた「コシャマインの乱」の指導者ではなく、作者の創造した人物です。

コシャマインは、シヤモ(日本人)の迫害と同族の裏切りを怒り、一切の恨みと屈辱を晴らすため部落から部落へと歩き廻った。だが、同族は日本の強い酒とたばこに眼を濁して立たなかった。冬が来て、ひょんなことから対岸の小舎の日本人と親しみ、ある夕方、みやげを持って対岸に渡り歓迎を受けた。そして日本の酒でしたたかに酔い、さて帰ろうとかると、「視よ、この時、一人の日本人が、太い棒を、コシャマインの後頭部に打降した。他の者共も走り寄って滅多打ちにした」
彼は、「又騙し討ちにしたな」と言い終わって、どっと汀に倒れて死んだ。コシャマインの死骸は一気にビンニラの断崖にぶつかり「神威が年毎に訪れ給うたカムイミンダラの淵に入って、水漬いている楓の下枝に引っかかってそこに止まった。

作者は、八雲のなかでもことのほか愛したビンニラの地で悲劇的な物語を結びます。文学碑は、このビンニラの丘に昭和60年に建てられました。国道5号から西へ5キロ。道道42号と遊楽部川と交差する立岩橋の手前です。

     碑文

     不遜なれば 未来の 悉くを失う 鶴田知也書