宮本百合子「風に乗ってくるコロポックル」ー新ひだか町

宮本 百合子(みやもと ゆりこ)
1899年(明治32年) – 1951年(昭和26年)小説家・評論家。
旧姓は中條ユリ。
日本女子大学英文科中退。

18歳で『貧しき人々の群』を発表し天才少女と注目された。米留学後結婚したが離婚、その経緯をまとめた『伸子』を発表。その後ソ連を訪れ日本共産党に入党。宮本顕治と結婚。再三検挙されながらも執筆活動を続けた。日本の左翼文学・民主主義文学、日本の近代女流文学を代表する作家の一人。

中條ユリ(宮本)が北海道に来たのは、開道50年の大正7年(1918)19歳の時でした。札幌のバチラー家に寄遇し、15歳年上のバチラー・八重子と知り合いました。八重子の案内で胆振と日高のアイヌコタンを訪れ、旅は静内まで足をのばします。そうして、小説「風に乗ってくるコロポロックル」が生まれました。

「彼の名は、イレンカトム、という。
公平な裁きてという意味で、昔から部落でも相当に権威ある者の子に付けられ る種類の名である。従って、彼はこの名を貰うと同時に、世襲の少なからぬ財産も遺された。
 そして、彼の努力によって僅かでも殖(ふ)やしたそれ等の財産を、次の代の者達に間違いなく伝えることが、彼の責任であった。混りっけのない純粋なアイヌであるイレンカトムは、祖先以来の習慣に対して、何の不調和も感じる事はない。彼は自分に負わされた責任に対して、従順以外の何物をも持たなかったのである。
 けれども、不仕合わせに、イレンカトムには一人も子供がなかった。心配しながら家婦(カッケマット)も死んで、たった独りで、相当な年に成った彼は、そろそろ気が揉め出した。祖先から伝わった財産(たからもの)を、自分の代でめちゃめちゃにでもしようものなら、詫びる言葉もない不面目である。
 自分がいざ死のうというときに、曾祖父、祖父、父と、護りに護って来た財物を譲るべき手がないという考えがイレンカトムを、一年一年と苦しめ始めた。
 そこで彼はいろいろと考えた。
 そして考えた末、誰でもがする通り、手蔓を手頼って、或る内地人の男の子を貰った。」