八木義徳「海霧の町で」ー襟裳町

八木 義徳(やぎ よしのり)
1911年(明治44年) – 1999年(平成11年)小説家。日本芸術院会員。
室蘭市生まれ。早稲田大学仏文科卒業。満州理化学工業に入社し大陸に渡る。1944年(昭和19)に応召、中国の前線に行くが、その直前に書いた『劉広福(リュウカンフウ)』で芥川賞を受賞。(北海道の芥川賞第一号)
復員後は、大空襲で失った妻子への思いを『母子鎮魂』(1946)に描き、続く『私のソーニャ』(1948)で手堅い私小説的方法を確立した。その後『摩周湖』(1950)、『風祭』(1951。読売文学賞)、『遠い地平』(1983)、『漂雲』(1984)などの作品があります。

「海霧の町で」は、40の坂を越した主人公は孤独感を抱いて、妻の遺骨を手に東京から岬の風景をみせるためやってきた。妻はこの岬からもっとも近い鉄道のあるS町(様似町)で少女時代を過ごし、死の床で岬の名を幾度もうわごとのように発していた。

「男は、白亜の燈台と、その側翼の白い建物を背後にした断崖の鼻近くに、わずかばかりの草原の繁みをみつけると、そこに腰をおろした。燈台の周辺はゆるやかな起伏をもったかなりの面積の丘陵になっているが、そこには一木の姿もみられない。いじけた寸詰まりの草が苔のようにぺったりと地表に貼りついているだけだ。しかもそれすら大部分が毛をむしられた野兎のようなむざんな赤肌をさらしている。
岬の前景ーだが、そこにあるものも、眼のくらむような高さで垂直に切り立った断崖の横原と、そこから一直線に6、7千米の距離をもって海面に張り出した大岩礁のつらなりと、その裾に砕ける白い波と、青黒い巨大な海面と、そしてその上に重く垂れた6月の灰色の空とーそれだけであった。それ以外のものは何もなかった」