高村光太郎「道程ー声」ー札幌市羊ヶ丘

高村 光太郎(たかむら こうたろう)
1883年(明治16年) – 1956年(昭和31年) 詩人・歌人・彫刻家・画家。
現在の東京都台東区東上野一丁目の出身。明治16年に彫刻家の高村光雲の長男として生まれ、明治30年、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)彫刻科に入学。文学にも関心を寄せ、在学中に与謝野鉄幹の新詩社の同人となり『明星』に寄稿。明治35年に彫刻科を卒業し研究科に進むが、明治38年に西洋画科に移った。父・高村光雲から留学資金2000円を得て、明治39年3月よりニューヨークに1年間2ヶ月、ロンドンに1年間1ヶ月、その後パリに1年滞在し、1909年(明治42年)6月に帰国

日本を代表する彫刻家であり画家でもあったが、今日にあっては『道程』『智恵子抄』などの詩集が著名で、教科書にも多く作品が掲載されており、日本文学史上、近現代を代表する詩人として位置づけられている。

明治44年5月初旬、28歳の光太郎が精神の危機を感じて北海道移住を志し、月寒・羊ヶ丘種羊場(当時の農商務省牛牧場)の研究生になりました。
「道程」の声の欄に掲載されているのが月寒の羊ヶ丘の一節です。

「平原に来い 牛が居る 馬が居る 貴様一人や二人の生活には有り余る命の糧が地面から湧い出る 透き通った空気の味を食べてみろ そして静かに人間の生活といふものを考へろ すべてを棄てて兎に角石狩の平原に来い」

しかし、「半日働いて半日絵をかくなどという始めの甘い考えなどはまるで夢に過ぎなかった」ことがわかって、その年の6月、二か月に満たぬ月寒生活を切り上げて東京に帰っていきました。間もなく智恵子とめぐり合うことになります。