新田次郎「最後の叛乱」ー新冠町

寛文9年(1669年)のシャクシャインの叛乱は、アイヌと和人による三大争乱の一つです。
シベチャリ(染退=静内町)とハエ(波恵=門別町)アイヌとの衝突に端を発します。両者は新冠川などの漁業権で対立し、加えて、お味方エゾといわれたハエを含む沙流川アイヌの親日派に対し、シベチャリを柱とする東日高アイヌは反松前藩の立場をとっていました。

新田次郎の「最後の叛乱」

「寛文三年の春、蝦夷地日高の新冠川の河口、ピポクにおいて和人とアイヌ人との間に盛大なオムシャ(交易)がおこなわれた」ではじまります。
その場には、松前藩の役人、運上屋、アイヌの首長、砂金堀り、鷹待の庄太夫など役者が揃っていました。

隠密でもある庄太夫は運上屋の搾取と、その手先となりアイヌ人に虐殺暴行を加える不逞の輩(砂金堀)に怒り、一方で、アイヌ同士の対立に体を張って諫める。

だが戦端は開かれ、「日高の一角に起こったシベチャリの酋長シャクシャインの叛乱の余波は燎原の火のように蝦夷地全体へ拡がっていった。アイヌ軍は渡島の国縫まで攻めのぼったものの敗退、やがてシャクシャインは敵の術策に陥る。

「酒宴が開かれ、泥酔したシャクシャイン以下20数名のアイヌ人酋長たちはことごとく斬殺された。アイヌ人による最後の叛乱はピポクの館で終焉した。蝦夷地のアイヌ人はこの日を境として、無条件降伏を強いられ、和人の奴隷に追いやられた」

蝦夷の時代に詳しく書いてあります。