野上弥生子「ノツケウシ」ー北見市

野上 弥生子(のがみ やえこ)
本名:野上 ヤヱ〈のがみ やゑ〉、旧姓:小手川、
1885年〈明治18年〉- 1985年〈昭和60年〉享年99歳
小説家。大分県臼杵市生まれ。
明治から昭和末期まで80年余の作家活動を行った。

野上弥生子の短編小説に「ノツケウシ」があります。
屯田兵の世界の一コマを書いているのですが、本人は屯田兵とは関係なく知人から聞いた内容をもとに書いたものでした。現地を訪ねたこともありません。

「漢字だと野付牛と書くのですが、へんなところだと云ってはじめて聞いた人はおかしがります。
明治の初年、屯田の兵制が布かれた時わたしの父は伍長として移住したので、わたしはそこで生まれ7つまでそこで育ちました。ですから今年の夏は丁度35年ぶりで故郷の土を踏んだわけになります。
一度ノツケウシに行ってみたい、というのがわたしたち一家の永年ののぞみでした。
母はノツケウシで4つの時に失った、そしてあの荒野の土の中にたったひとり残されている末の娘ーわたしの妹ーの墓に、どうかしてお詣りがしたいと言い続けていたのでした。」

一本の大きな楡の樹を伐り倒そうとして「妹」は駆けだして樹の下敷きとなり亡くなりました。

「母とわたしは途中何度話したかわからないその話を繰り返しました。」
「停車場からずっと眼にしたノツケウシは、わたしたちがはるばる胸にたたんで来たものとは別世界であり、ほんの昨日のように感じられる出来事のあいだに挟まっている35年が、いかに遠いむかしであるかをしみじみ思わせました。」

囚人道路
北見市民の生活基盤の礎となったのが、俗に囚人道路と呼ばれた道路です。
現在の道路に当てると道道104号(網走~端野線)から端野~北見~国道39号~留辺蘂(道道103号)~佐呂間花園~共立峠~生田原~遠軽~北見峠となります。

囚人道路が完成して、明治30年に北見の歴史がはじまります。
この北見地方に二つの団体が入植しました。一つは土佐の植民会社・北光社が募集した120戸・350名です。北光社のうち13戸・45名はオロムシに入植し、それが訓子府町のはじまりとなりました。

もう一つの団体が「屯田兵」です。囚人道路を急がせたのは屯田兵を入植させるためでした。屯田歩兵第四大隊と称し、五中隊で編成され、各中隊200戸、1戸5人、約1000人が端野、野付牛、相内、南湧別、北湧別に分散されました。