「厚田村」は映画監督・脚本家の松山善三が書いた単行本です。

父親に徴収令状が届き札幌月寒の25聯隊に行くところくらいから始まります。(日露戦争)。上巻は厚田村の網元佐藤松太郎が主役として登場。
当時の鰊漁とヤンシュウ・番屋の生活が生き生きと描かれています。松太郎は北海道網元の横綱でしたが面倒見が良く、地域の子供にも育英資金を出していたほどでした。  
この本の主人公である「セツ」という女性は佐藤松太郎の娘をモデルにしており、セツに字を教えたのが戸田城聖であるとか言われています。
 
松太郎は文久3年(1863年)、厚田の安瀬(やそすけ)に生まれました。
両親は、岩手県の人で江差に渡り漁業を営み、明治維新前に厚田に移住して漁業をしていました。
1869(明治2)年、蝦夷が北海道となったころの厚田村は定住35戸、男女150人、出稼ぎ人1,000人、多い時には2,000人いたといわれます。札幌は未開の原野でしたから、厚田漁場がいかに栄えていたかがわかります。
 
松太郎はほとんど文字が読めませんでしたが、父の仕事を引き継ぎ、常に漁具や漁船、海の天気と正確な直感力を駆使し、石狩から厚田、浜益の沿岸に99ケ所あった漁場のほとんどを所有する大網元の親方になっています。
小樽の運河沿いにある倉庫群の半分以上は佐藤松太郎の倉庫でした。
この直観力を小説「厚田村」では見事に描いています。
また、松太郎は身長159㎝、体重が42貫(157㎏)。超肥満体で、外出時自分で歩くのも大変、尻を拭くこともできないほどでした。
 
明治40年には道会議員も一期つとめ、海運業にも手を広げて活躍。厚田村に札幌から電気を引いたり、公共のためには多額の寄付もしたり、地域に大きく貢献することとなりました。大きな体で村の人々から「布袋さん」と呼ばれ、厚い人望を集めました。
明治37年に5万円をかけて隠居家を建てましたが、現在の戸田旅館として残っています。
 
1918〈大正7〉年11月25日、小樽でスペイン風邪にかかり57歳で亡くなりました。(旧厚田村栄誉村民)