子母澤 寛(本名・梅谷 松太郎)は、祖父梅谷十次郎(通称斉藤鉄太郎又は鉄五郎)に盲愛的に可愛いがられて育ちました。胡坐の中で語り聞いた話が子母澤文学の源泉になっています。

「私の祖父は江戸の無頼(やくざ)でありました。本来は伊勢の藤堂さんの家中であります。何時頃から、何うしてそんな仲間に入つたのかは解りませんがー身体一面に龍の刺青があつて、その背中の真ン中のところに丈五寸幅三寸位の観音様の御立姿が、輪郭をとつて立派に彫つてあつた」
 
祖父を書いた短編の作品があります。
「蝦夷物語」は子母澤の代表作のひとつですが、上野彰義隊の戦いで敗走した御家人が、苦労しながら仙台までたどり着き、榎本艦隊に合流、蝦夷にわたり箱館戦争に参加するという祖父斎藤鉄太郎の姿を描いています。
「厚田日記」では、箱館で降伏した後、札幌近郊の開拓地で開墾を始めたが、敗残の同志と謀って逃亡、落ち延びて小漁村の厚田村に土着するまでを描いています。
この2つの作品に「南に向いた丘」が加わり三部作となっています。
 
祖父梅谷十次郎は、子母澤が描いた小説が元になり人物像になっています。
例えば、「斎藤鉄太郎 二十俵の小普請の御家人で本所南割下水に住んで居りましたが、まだ女房もなく道楽者かと思えば、ひどく切り几帳面なところがございました。二十七八ではなかったかと思います。薄あばたがありました」と描いており、御家人であったが定説となっています。
 
私は歴史の研究者ではありませんので何ともいえませんが、幼い子どもに聞かせた話がベースになっているので話が膨らんでいるのではと思えてなりません。
どこまでが事実かは別として、それが返って小説を面白くしていると思います。
 
しかし、祖父梅谷十次郎の語りが源泉となり、佐幕意識にもとずいた幕末ものの小説を作り出したと言えます。また、梅谷十次郎なくして座頭市は生まれませんでした。ところが座頭市の見本は梅谷十次郎ではありません。
類は類を呼ぶで梅谷十次郎の回りには小説の題材になる人物がおりました。