十津川村は日本の秘境といわれていますが、訪ねた人は少ないと思います。
かつては1万人ほどが暮らす村で、隠れ家的存在でもありました。逃亡者となった平家一族や源義経、南北朝時代の皇族・忠臣、幕末には新選組に追われた藩士など、表舞台へ再起を志すものが辿り着いたところでもあります。

その逃亡史の中で最も新しい人物に幕末の土佐藩士田中と那須がおります。二人を匿ったのは田中主馬蔵という郷士の家でしたが、この場所が遠い山岳地で、ここまで逃げ延びなければならなかったのかと思われるくらい都から遠い地でした。

この連載は、これから明治22年に起きた災害に入りますので、村の地名と位置関係について記しておきたいと思います。

十津川村(上図の緑色)は北部を奈良県五條市、西は和歌山県の高野山・南部は和歌山県熊野町、南東部は三重県と接し、村の面積は琵琶湖ほどあります。
しかし、現在の十津川村を指すようになったのは幕府の直轄地となった江戸期以降であり、古来の十津川は五條市大塔町地域(旧大塔村)の天辻峠以南の地域を指し、55の領(字)で成り立っていました。

これは十津川の川の範囲と関係しています。熊野川の上流を「天ノ川」といい(山上ケ岳からの水色)、五條市大塔町阪本の大塔橋から十津川の呼称となり、多くの支流を集め和歌山県新宮市熊野川町宮井で北山川と合流し熊野川となります。
かつては、阪本の北にある「天辻峠」から三重県の県境を流れる北山川までが「十津川郷」と言われ、十津川の長さは約98kmあります。

五條市から国道が開削されたのは昭和34年のこと。
それまでは人が通れる程度の道で下界に通じる唯一の道でした。明治22年の水害で、この道が壊滅し村が完全に閉ざされてしまいます。村の中央を縦断して新宮に至るこの道(後の国道168号)は、十津川と並行して造られたものでした。
閉ざされた村の惨状が五條に届いたのは4日目のことです。

山岳地の十津川村は平地が少ないため、集落と言われるのは上野地(うえのじ)周辺・湯泉地(とうせんじ)温泉周辺・十津川温泉周辺の三カ所くらいです(黄色の楕円)。

秘境の代名詞でもある吊り橋があるのは北部上野地。
国道から対岸の谷瀬に掛けて全長300mの鉄線の吊り橋です。昭和29年に800万円の工費で作られましたが、工費は谷瀬とその奥に住む人々が一戸あたり30万円の負担金を出して架橋しました。
対岸の小さな谷瀬部落の人々としては、国道が出来上がってゆくのをみるにつれ、谷瀬だけが離れ島のようにとりのこされるという危機感を持ったのでしょう。本道と濃厚とつながっておきたいという心理の方が大きかったのかもしれません。