免租地に異変(律令制と免措)

そもそも、領地というのは領主がおり、そこから租税をとりあげる土地ということです。律令国とは、飛鳥時代から明治時代初期まで、租・調・庸・雑徭や労役というような税負担を強制するかわりに、6歳以上の男女に一生使用できる田を分配し耕地を保障する制度です。日本は唐の律令をベースにつくられました。

行政の仕組みは今も昔も大差ありませんが、現在の税制度で疑問に思うものもあります。その代表がマンションの固定資産税。また、建ぺい率も行政の良い金づるになっています。

十津川郷(村)は、壬申の乱(672)以来、明治6年まで免租地でした。基本的に税を納める必要がないだけでなく、誰にも干渉されることのない別天地だったのです。
ところが、羽柴秀吉がおこなった太閤検地(1583~)は秀吉が百姓上がりですから徹底したものでした。その検知は十津川郷にもおよび、山々や渓谷にまで入り込み、田畑が半枚でもあれば測量し取れ高を測りました。
しかし、検知結果は収穫できる土地はほとんど無かったということで免租地となります。ところが、十津川郷の取れ高をありもしないのに「千石」と定め、秀吉の国家体制に入れられ中央集権国家が成立した時でもありました。

豊臣の支配下に入ることで、それまでと事情が変わってきました。
「なにか事があれば出勢つかまりましょう」十津川郷の代表が奈良奉行所に申し入れていたのではないかと言われています。

十津川郷は昭和のはじめごろまで、人が死ぬと、おくやみにくる者が、口々に「コメヨウジョウもかないませず」と、遺族の人々にあいさつしたといいます。病気になると、力をつけるために「米のかゆ」を食べさせるのですが、そういう栄養療法もかなわずに亡くなった、ということをくやむのでした。それほど米が貴重なものだったのです。

米が取れない領地は十津川郷の他に蝦夷地がありました。「蝦夷の時代」のコンテンツで書きましたが、東北の藤原以後残党が渡島半島の海岸に張り付き、アイヌとの交易が米代わりでした。蠣崎慶広(初代松前藩主)が積極的に秀吉や家康に接触し、ようやく配下に入れてもらい獲得できたのが1万石大名。

蝦夷地は十津川とは違い、京からは遠く、そもそも領土とは考えていませんでした。
十津川郷は、従来通りの免租地となりましたが、権力者に対して「免租」であることを常に申し立てをしなければならなくなったのです。

律令制について

奈良・平安朝の律令制は、京の公家が土地を公のものとし、法によって農民を土地にしばりつけたものです。ところが、荘園(しょうえん)という私有地があり、これは公家や寺院にのみ許された特権でした。当然、公家や寺院が田畑を耕すのではなく、荘園を耕す農民は律令農民と同じです。

平安末期に入ると、律令の束縛から逃げ出すものが出てきました。逃げ出した者を召し抱える親方が各地にでてきます。抱えられた者は、親方のもとで河川からの灌漑工事をおこない親方のための新田を開墾しました。この親方たちがやがて「武士」と言われるようになります。

しかし、武士には土地の私有権がありません。京の公家や寺院にそれらの土地を献上し、その名義上の所有者になってもらうことで荘園として公認されました。

武士は自分で開墾した農場の管理人としてしか存在できなかったのです。

当然公家との争いは避けられず、源頼朝をかついて成立するのが鎌倉幕府です。親方たちは頼朝の「御家人」になることで、その所領の所有権を安定させることができたのです。

十津川郷は江戸期に入っても幕府の直轄地ではありましたが免租地でした。

しかし、慶長19年(1914)家康は大阪冬の陣を仕掛けます。この報が十津川郷に知らせられるや、1000余人が武装して山を下り、いまの奈良市に到着し奉行の指揮下に入ります。幕府が農民をこのように使うということは例のないことで、やはり暗黙の裡に特別な処遇をうけていたのでしょう。

戦国以来、大名の動員能力は一万石につき250人と言われています。1000余人といえば4万石以上の実力者になります。4万石の殿様といえば越前の大野城、摂津の尼崎城、駿河の田中城、犬山城でも3万5千石です。

十津川郷が家康本陣に直接警備をしていたのは250人のうち5~60人(うち鉄砲30人・弓15人)で、後は足軽レベルでした。しかし、この戦が終わってから恩賞をもらっているわけではありません。

「壬申の乱以来、兵を出してきたが、恩賞をもらったことは一度もない」これが郷の自慢のひとつでもありました。

十津川郷の有事やだいじなことは、55ある字(あざ)の代表者たちが集まり、合議し決定していました。封建時代は「字」を「領」と名付けており、この用語を十津川では今も使われているといいます。封建制度が終わっても、元々領地の意識がないので長殿領(字)などと呼ばれるといいます。

他からの侵略で領主となった者がいないかわりに、独裁者が出たこともありませんでした。天下を統一する権力者が現れた時に、その勢力に対応しないで、その側に兵を貸し出すことで免税を守ろうとしたのではないかと思います。

十津川郷の主たる生産は「木材」で、木を切り、十津川を筏で新宮まで下り商売としており、この収入に対しても税を収める必要がないということです。

十津川人は農民身分で山仕事をしながら高価な具足、槍、弓、足軽の腹巻などを家々に持っていることを奈良奉行所は黙認していました。

私の叔母の話によると、高祖父の家には刀や古文書などがあったといいます。十津川郷の長から召集がかかれば、京都(京詰)、天誅組では五條に繰り出し、戊辰戦争では長岡城攻めや箱館戦争にも出かけて行ったのかもしれません。