「十津川」と聞いて何を思い浮かべるでしょう? 
関西の人だと奈良県の十津川村、北海道の人は新十津川町が高いでしょう。
しかし、西村京太郎の十津川警部が圧倒的だと思います。
西村京太郎の「十津川警部」は、地図でたまたまみつけた十津川村の地名に惹かれて命名したといいます。ちなみに、警部の名前は「とつがわ」ですが、村の名前は「とつかわ」と濁りません。

壬申の乱

十津川の人々が日本史に登場したのは、7世紀、古代日本最大の内乱「壬申の乱(672年)」でした。吉野に隠棲していた大海人皇子(おおあまのおうじ)が、天智天皇崩御ののち挙兵、そのまま大友皇子を打ち破ります。日本史の授業では必ず出てくる内乱で、十津川村の年表にはこう書かれています。

「672年 弘文元年 壬申の乱の際、郷人は天武天皇(大海人皇子)に従い、功あって三光の御旗及び御製を賜って租税も勅免されたと伝える」

この”郷人”というのが十津川の人々。三光とは太陽、月、星の3つの紋のことで、御製(ぎょせい)というのは天皇の詠んだ和歌のことです。

和歌とは「とをつ川吉野の国栖のいつしかと仕へぞまつる君がはじめに」でした。
このときの功により免租地となり、以来、明治6年(1873年)に地租法が改正されるまでの約1200年間、十津川は年貢を納めなくてよい別天地となったのです。
とんと十津川御赦免どころ 年貢いらずのつくりどり」 
五條市大塔町を通って、村境の城門トンネルを抜けたところに歌碑が建っているといいます。江戸のころに歌われた里唄らしいのですが、太閤検地を経ても、徳川の時代になっても、十津川は免租地であり続けました。

南北朝時代

14世紀にも十津川村は登場します。南北朝時代に入ると、十津川は一貫して南朝方に忠誠を尽くします。後醍醐天皇の皇子で鎌倉幕府討幕の中心的な役割を果たした大塔宮護良親王(だいとうのみや)の十津川落ちでは親王を守護し、大塔宮がこの十津川の地で討幕の策を巡らせていました。

また、吉野・賀名生(あのう)では、南朝時代の首都(ただし正式な首都ではない)の警備にあたるなど十津川郷民の功績も多く、後醍醐、後村上、長慶の三帝の御綸旨(天皇の意を受けて発給する命令文書)も数通におよびます。
その数十年後、楠木正成の孫の楠木正勝が最後まで南朝方につき十津川に立てこもったことなどもあり、十津川には尊皇の気風が育まれました。

私のふるさと「上士別町」を流れる天塩川に架かる「菊水橋」は楠木正勝の家紋(菊水紋)から取られたものと思います。明治37~38年に十津川村から上士別に大勢の人が移住しました。

足利幕府の成立以後も守護大名は十津川を放棄し続け、十津川は封建支配の外に置かれました。その後、豊臣秀吉による太閤検地が行われますが、租税は徴収されず、江戸期に入っても伝統的に免租地であり続けました。

天誅組

十津川を最も有名にしたのは幕末の十津川郷士です。文久3年(1863)8月,京都御所を守るため十津川郷士が京都に「十津川屋敷」を構え、およそ200名が守衛として働きました。村では「京詰」と呼んで、勤王志士の一翼を担っていたのです。
この京詰の前夜,中山忠光(明治天皇の伯父)は,土佐藩士・吉村寅太郎らとはかり幕府と戦おうとしました。この一軍は「天誅組」と名のり,京都から大阪を経て五條にあらわれ代官所を攻め落とします。おどろいた朝廷は,これをしずめようとし,幕府も軍をさしむけます。

この幕府軍と戦うため天辻峠にしりぞいた天誅組は、十津川郷士に味方になるよう呼びかけてきました。朝廷のために働くのだと聞いた野崎主計・深瀬繁理らは中山忠光のもとに駆けつけます。その数,実に1000人(15才から50才まで)を超えたといわれます。十津川勢を味方につけた天誅組は,高取城に攻めのぼりましたが敗れてしまいます。そして、追われ追われて十津川まで落ちてきました。

京都にいた十津川郷士たちは、この騒ぎは朝廷のためにならないことを知らせ、野崎らは解散することにしました。しかし,深瀬繁理は最後まで戦って倒れ、野崎主計は責任を感じて自害します。
中山忠光らは,十津川から北山をへて長州へ逃れ、吉村寅太郎らのほとんどは、捕らえられたり殺されたりして40日ほどでおさまりました。しかし、これは明治維新のさきがけとなったともいわれています。

戊辰戦争

戊辰戦争でも、北越、奥州、函館と多くの犠牲を払いながらも従軍しました。維新後、新政府から下賜された恩賞は、文武館、のちの十津川高校の校舎建設と維持に充てられました。

十津川村の資料館に保存されている坂本龍馬の刀

もっとも有名な逸話は、坂本龍馬が近江屋で暗殺されたとき、店先で「十津川郷の者」だと嘘をついて店の者を安心させたことです。十津川郷士たちは、それほど龍馬やその仲間たちから信用されていたということです。龍馬は、とりわけ中井庄五郎という若い十津川郷士を可愛がっていて「青江吉次」と鑑定された刀を贈っています。十津川村役場近くにある歴史民俗資料館には、刀を贈られたときに添えてあった龍馬直筆の手紙も所蔵されているといいます。

明治21年には市町村制の発布にともない十津川郷55ヵ村は6ヵ村に統合されましたが、翌22年の明治大水害と北海道移住による人口減のため、明治23年に再び統合して現在の十津川村となりました。(当初の十津川郷は今よりも広範囲でした)