司馬遼太郎の街道を行く「十津川街道」の書き出しは、「坂本竜馬の京都における最後の下宿は、醤油屋大江屋の家であった。(中略)不時の来訪者があった。下僕の藤吉が階下に降りてみると、土間に人影が立っていた。「私は、十津川郷の者だが」といって名刺を出し「坂本先生はご在宅か」ときいた。人影は藤吉の挙動によって竜馬が在宅であることがわかった。疾風のように梯子段を駆け上がった。その凶行者が、わざわざその地名を名乗り、そのことで藤吉が味方だと思い込んだことに注意したい。(司馬)

十津川村を「共和国のよう」という歴史学者がおりますが、司馬遼太郎によると「実態は十津川共和国だった」と語っています。
日本という国は陸続きであるため他国に渡ることができません。そのため他国と言えるような場所が十津川郷だったといえます。それだけ山の山の中ということです。

古代から明治維新まで、十津川郷(村)は誰の領地でもなく空白地でした。
1000mを超える山々が60以上も連なり、平地といえるのは文武館(現在の十津川高校)くらいしかない山岳地形です。山にへばりつくように家を作り、空いた土地に種をまいて食を確保、後は狩猟の民。米は年に一度口にできればよい暮らしのなかで、いざ天皇が一大事となれば、京を目指して獣道を三日三晩寝ずに駆け下りた軍団でした。
この独特の文化・気風が十津川人を輩出したといえるでしょう。

2011年(平成23年)の台風第12号で、紀伊半島を集中豪雨が襲い十津川村はまた甚大な被害をもたらしました。新十津川町では「母村を助けろ」で基金を募ると7000人の町民から5000万円の見舞金が集まりました。
北海道には郷土の地名を受け継いだ市町村は他にもありますが、ここまで先祖の地を慕う町はないでしょう。

十津川人は概して素朴で頑固一徹、馬鹿正直で人情深く世話好きで興味心旺盛なのは山峡の険阻な自然が育ててきたものと言われています。先祖伝来の十津川人気質が北海道の子孫にも受け継がれているのでしょう。

写真は、奈良県十津川村を走るバスの中からです