「十津川人」を奈良県十津川村の歴史に遡り、古事記~吾妻鏡~幕末~戊辰戦争、そうして明治22年の大水害から明治39年「金滴酒造」まで15回の連載で綴ってきました。今回で最終回になります。
しかし、十津川村の北海道移住はこれでお終いではありません。

北海道への大移動は明治37-38年に第二弾がはじまります。
先人の成功を聞き吉野団体が結成され、道庁に掛け合い開拓の土地を受けます。新十津川村で提供できる土地は一部で、新たに明治32年に屯田兵が入植し開発が進む士別地区の上士別原野と決まりました。

明治37年、第一陣と一緒に旅立った谷瀬地区男性の生涯を書いた「北の春いくたび」を「上士別村の歴史」としてダイジエスト版で連載します。
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番外編

「わたしたちの新十津川」は、新十津川町教育委員会で作成された「小学校社会科副読本」です。

昭和30年に初版が発行され第4版の改定版です。空知管内では副読本の草分け的な本でした。

176ページにおよぶ内容の中で、明治22年から明治24年までの様子が17ページに渡って子ども達に伝えられています。この十津川人で連載してきたことが、分かりやすく書かれています。

それ以外にも移住に関連する項目を拾ってみると

「新十津川町内の地名」のページでは

「大和」→ふるさと奈良県は、昔「大和の国」と呼ばれていた。

「吉野」→明治37年、奈良県吉野郡の人たちが集団移住して住み着いたところ。

「町の発展につくした人々」のページでは7名の先人が紹介されています。

更谷善延(さらたによしのぶ)→明治23年、みんなの選挙で初代戸長(村長)になった人。

西村晧平(にしむらこうへい)→徳富川から用水を引くために「土功組合」をつくり、村の水田が広がった。

池本楳吉(いけもとうめきち)→「産業組合」をつくり、安い利子でお金を借りられるようにした

西村直一(にしむらなおいち)→晧平の子ども。明治22年、東京の大学を辞めてトック原野を調べた人。査し村人を説得した。文武館長や村長も務めた。

鈴木莞爾(すずきかんじ)→北竜で病院を開いていたが新十津川村の村医となってきました。

後木喜三郎(うしろぎきさぶろう)→11歳の時、父と新十津川へ。産業組合長や農会長として、共同施設づくりをすすめた。名誉町民。

東  武(あづまたけし)→北海道移住の世話をし、道会議員や国会議員となりました。

私は、ふるさとの小学校で町を作った先人の固有名詞を聞いた記憶がありませんでした。

教員委員会の熱意がなければ歴史を伝えることが難しいのかと思います。

写真は現在の新十津川町の土地のようすを現した地図です。一番広い茶色は森林、緑が水田、黄色は畑です。

河川に沿って開いた土地は水田地帯となりました。市街地は見えにくいですが小さな赤で「大和・中央・花月・吉野」の四カ所です。

新十津川町は十津川郷民によって拓かれました。元々「木こり」が生業であった村ですから、原始林を切り開くのは得意でした。ところが、農業に慣れない人々は、どうしても土に密着することができなかったようです。

決して楽な生活ではなく、深川の菊亭農場へ小作に出るような例も現れました。加えて1898年(明治31年)には再び石狩原野の大洪水により被害を受けることになります。当時菊亭農場の支配人となっていた東武(あづまたけし)は、被災者救済のために尽力し、それを契機に政治活動に入ることになりました。

この町の米作は1893年(明治26)頃から既に試作が行われていましたが、先の災害を機に水田造成の機運が高まりました。それは当時の重要作物であった亜麻など畑作の多大な損害に対し、水稲は被害を受けなかったためで、やがて私設の水利組合も作られ造田が進展しました。その後、石狩川治水計画が決定し、河川改修・泥炭地の開発が行われることになりました。
1902年(明治35)には滝川と結ぶ石狩川橋を架橋、1935年(昭和10)に札沼線の開通と次第に交通網も整備され1957年(昭和32)に町制を施行しています。

次第に離農する人、郷里に帰る人もおりました。しかし、多くは郷里に帰ることを恥じ、十津川郷士として敗北の姿を郷里にさらしたくなかったのでしょう。そうして実に移住した者の6割が新十津川を離れ、道内各地を流浪します。この人々を「新十津川衆」といわれました。

私が新十津川町の町役場に「十津川郷の集まり」について問い合わせをすると、新十津川衆の会合があると聞きました。十津川郷の集まりは、東京で毎年開催しているようです。
新しい土地に踏みとどまった人も次第に開拓地を離れ市街地に集まりました。これらの人々の生活は安定し、新十津川はここを中心に発展していきます。十津川郷民が開拓した土地へ入植してきたのは日本海沿岸から移住した農民でした。今は、最初からの場所に家を持つ十津川郷民は10戸にすぎないといいます。

北海道では氏神に土地の名をつけるのが習慣で、昭和42年玉置神社は新十津川神社と改められました。地元の人達には玉置神社の由来が少しずつ忘れられてきたようで、入植して129年、多くの町民は2世から3世になり無理もないことだと思います。

北海道移住が速やかに実行された背景には、地域社会の繋がりが強く、十津川郷という共通の意思疎通があったことが大きいと言われています。十津川郷の指導者は十津川郷被災者を守るために全力を尽くし、被災者はその指導者を信じ団結してこれに答えたということです。

伝来の十津川人気質が北海道の子孫にも受け継がれているようで、毎年子どもたちを相互に送り込み親善を図っているといいます。

中心市街地にある「開拓記念館」は、リニューアルされ展示物も分かりやすく整理されています。受付の人はボランティアですが、お願いすれば同行して説明をしてくれると思います。

写真は現在の新十津川町です
                               おしまい