日本一長い直線道路!美唄~滝川29.2kmコース

直線道路29.2キロ

国道12号を走ると、美唄から滝川間に直線道路があります。この道は囚人の手で開削されました。森林地帯の真ん中へ広い直線道路をつけるのは容易なことではありません。夜は両方の高台で火が焚かれ、火を目印にしゃにむに切り開いているところもあります。けれども、排水工事までは手がまわらないため雨が降ると、たちまちぬかるみとなります。囚人たちは泥の中を腰まで埋まって杭を打ち、板を並べました。あまりに労働が激しかったので、あっけないほど、もろく死んでいきました。死んだあとには新しい囚人が送られてきました。北海道の開発はまず道をつけることから始まりましたが、その道はところによっては1メートルに一人というほど、囚人たちの命を吸い取っていったといいます。

国道275号の月形には1,022人の無縁仏墓が整然と並んでいます。

空知太(滝川)に到着

移民団は11月6日から18日までの間に、全員空知太(滝川)に到着しました。
途中、死んだ者2名。生まれた子ども一人。十津川を出て20日目のことでした。まだ一人一人がどこに入植するかは決まっていません。

むろん、目的地の森に建てられるはずの小屋もできていません。

間に合わせに、屯田兵の小屋で初めての冬を迎えることになりました。この年、空知太でも屯田兵の村をつくろうとしていました。予定は460戸だが、そのうちの100戸がどうにかできあがっていたのです。まず家を建てておいて隊員を募集する予定です。
人間はまだいない。空き家になっている兵舎へ、移民たちを収容しようということでした。全部で600戸の集団。4家族ずつを入れるとしても150戸の小屋が必要となります。残りの50戸が夜を日についで建てられていました。

小屋の広さは17・5坪(約58平方メートル)。6畳と四畳半に畳が敷いてあり、もう一つの六畳は板敷きです。そこに大きないろりが切ってあります。便所は土間の隅にあり、反対側に一坪の広さの炊事場がついていました。

「ここに15人がはいるのか」「どうやってつめこむよ、15人も」

「知るもんか、寝るときはくじでもひけ」

寝るのがひと騒ぎでした。ふとんはこちこちに綿がかたまっています。

それも、一家に上下二枚しかありません。ひとり者はぬくぬくともぐりこめたが、一家四人ともなると、はみ出す者もいます。火の近くは板の間だし、畳の部屋には火がとどきません。

「おれは、どうもだまされたような気がしてならん」「もっていくところがのうて、北海道へ棄てられたか」

長い冬がゆるゆると過ぎていきました。

―また葬式やー ―こんどは誰が死んだのやろー -春になって何人が生き残れるものやらー

毎日のように葬列は坂をおり、空知川のほとりへと道を曲がって行きます。埋めるためです。もう凍てついた土を掘り起こすのは簡単にはいきません。うわさではすでに百人近い人が死んだといいます。

三月になった

やっと石狩川の氷が割れ始めました。そのころになって、川の西岸では道庁からやってきた測量隊が作業をはじめます。技師たちが原始林にとけこんでいくと、森の一点がかすかにざわめきはじめます。人足たちが木を切っているからです。やがて、小さな空き地に掘立て小屋が建てられました。十津川移民たちの小屋をうけおった大倉組が、何組もに分かれて樹海の中にもぐりこんでいきます。

これとは別に、赤服の囚人たち400人が動員されてきた。囚人たちはひたすら道をつけていました。

石狩川にそって南北に直進する幹線道路―のちに樺戸街道(現国道275号)と呼ばれるーは、しゃにむに森の中をのびました。         

屯田兵家族

そんなある日。屯田兵になるために移民団を離れる者があいさつ回りをはじめました。屯田兵の募集は、神戸から移動する船の中でもチラシが配られていたのです。

「なんじゃかんじゃと思案したが、親父の十津川武士の跡を継いでみますわい」屯田兵になる者は95戸をかぞえた。95の家族が出て行くのは予想外でした。

 

川を渡る日

初夏の日差しが明るく森にひろがり、雪はもうとっくに消えて、あたりはいちめんの新緑でした。

待ちかねた入植の日が来ました。数日前から渡船場は荷物と人であふれ返っています。渡し舟は小さいので、休む間もなく往復しているのです。対岸では赤服の囚人たちがちらちら動いており、荷物の運搬を手伝ってくれるらしい。

くじ引きで割り当て地も決まっていました。一戸あたり均等に1万5千坪。

アイヌ名でトックと呼ばれる樹海は、無人のまま新十津川村と名付けられました。

幻の村に、いま537戸、2224人がいよいよ石狩川をこえるのです。滝川村に屯田兵として残った家族を加えると632戸。出発した時より戸数が増えているのは、こちらへ来てから分かれた家もあるからです。

兵村ではもう演習がはじまっていました。屯田兵の村では開拓もぼつぼつはかどっています。移民たちは心がせいていました。いわば脱落したはずの屯田兵村に負けてはならない。

遠ざかる滝川の村をながめた。およそ7か月という長い仮住まいでした。

海底の小屋

渡船場から南に1里(4キロ)のところで、一行は左に曲がりました。そこからは道といえるものではありませんでした。刈り分けているだけで、背丈をこえる、びっしりつまった茂みの中は、見るだけで息苦しかった。

幅百閒(一間1.8メートル)、長さ百五十間という一戸あたりの土地は、途中で自分の割り当て地を見つけてぬけていくことになります。まだ歩かなければならない男たちは、「それじゃ元気での」と、長い別れのようなことばを投げた。

「着いたぞ。ここがおれたちの」土地だといおうとして、思いとどまった。土地はどこにもなかった。あるのは、笹と20メートルもありそうな大木ばかりでした。

三間に四間、12坪の小屋は土間を長くとってあり、部屋は七畳半が2つ。2つとも板を打ち付けてあるだけで畳はありません。一方の板の間にはいろりが切ってあり、柱は皮をむいたままの丸太を土に埋め込んだたけでした。
むろん天井などはない。内と外からベタベタ土をつけただけの壁は、まだ充分かわいていませんでした。柱のきわにはすき間ができています。

「えらいところへ来てしもうた」これでは空知太(滝川)の兵舎のほうがよっぽどましだった。こんなところで、果たして生きていけるのだろうか。