大地震、大洪水の災害

明治22年に奈良県十津川村を襲った大水害は、全国でも起きていました。
明治24年(1891年)、岐阜県・愛知県を中心に大地震が起き、死者7000人以上という被害をもたらします。加えて、明治22、28、29年には九頭竜川が洪水を起して福井県の農地を飲み込みました。
明治26年、29年には、長良川が岐阜県の農地を飲み込み、鳥取県では水害が起きました。
そうして、明治30年(1897年)には、全国的に凶作となります。

社会の変化に追い詰められた上に、自然災害によって痛めつけられた人々が、何んとか立ち上がろうとしたところに「十勝移住」の話があったのです。

池田農場

豊頃町の北に接する「池田町」は、明治23年旧鳥取藩主池田輝知(てるとも)の跡継ぎとなった15代徳川慶喜の五男「池田仲博」が払下げられた土地でした。

明治29年、利別太と下利別太(池田町)が「池田農場」となりました。
池田自身は来ないで、管理人として久島重義が着任しました。池田農場では、未開地を7年間農民(小作人)に貸して開かせ(1戸あたり約3㌶)、2年目から小作料(大豆による現物)を取る、という小作制度で開墾をしました。
小作人を募集するときに、「移住にかかる船、宿泊、食事などの旅費はすべて農場が出す。また、開墾して農地づくりに成功したら、その60%は小作人の土地になって自作農になれる「開き分け」である」と話していました。
しかし、農場では開墾できると、また新しい土地を開けといって、せっかく開いた土地を取り上げてしまいました。
自作農の夢は中々かないません。管理人の久島は、池田家に申し出ますが、池田仲博は同意しません。昭和9年、久島は亡くなるときに「小作人に申し訳ない」ともらしていたといいます。