大津港 

依田勉三が十勝国に入植した時代は大津(現豊頃)が行政の中心でした。

開拓使は、明治11年に函館―根室間を開設し寄港地に大津がありました。明治13年2月の大津村管轄の人口は307戸・1307人で駅逓なども設定されていたのです。

大津村というのは、大津川(現十勝川)河口で両側から砂州が延び、船は川内に進入できませんでした。
従って、港湾施設は無く、到着した船舶は沖に停泊し、乗客や貨物は艀で運搬して砂浜に上陸させるというものでした。
時化(しけ)ているときには釧路に向かうか函館に戻ることもあったといいます。 

大津港と内陸地への集落を結ぶ手段は、十勝川の舟運に限られていました。
川舟は大津を出ると茂岩、利別太、武山を経て終着下帯広を目指します。

 晩成社の「渡辺勝・カネ日記」によると、往復に4日~9日もかかるとあります。現在であれば、車で1時間程度の距離です。
当時、帯広内陸との連絡や流通は大津まで出てこなければなりませんでした。

これは依田勉三と南伊豆との便りは、大津まで来なければ手紙を読む事すらできなかったということです。
 
写真は明治31年に士幌町開拓で入った美濃開墾㈱の入植経路です。
開拓者たちは、現在の豊頃町の大津港まで大船で来て、小舟で岸まで荷物を運び、更に十勝川を舟で上っていきました。道はなく十勝川が唯一の道でした。