関寛斎  

千葉の東金生まれ。
順天堂大前身である佐倉順天堂で医学を学び、徳島で藩医となり、戊辰戦争で名医といわれた関寛斎です。
余生の安逸を捨て、それまでの全ての財産を十勝の辺境地に注ぎ込みました。 

北海道開拓にあたっては10年間の周到なる準備をしていました。
四男の又一を札幌農学校(現北海道大学)に入学させました。更に石狩に農場を開かせ、陸別斗満原野にも先発して入地させていました。

しかし、この又一と牧場経営を巡って確執がうまれました。
寛斎は、豊頃の二宮尊親のところに何度も訪ねています。農場を解放して自作農100戸を育てあげたいという寛斎。農学校仕込みの又一は、アメリカ式大農場をといいます。理想主義と現実主義の衝突でした。

又一と共に10年間斗満で開拓に人生を捧げ82歳で服毒し、自らの生涯を閉じました。
最後まで、自由人たらんとした者の一流の結末の付け方でした。
寛斎自殺後、9年で又一は行き詰まり、陸別を去ることとなりました。

北海道ゆかりの人たち「関寛斎」に詳しく紹介しています

写真は、陸別町にある関寛斎の銅像