北海道人のルーツ 7   旧幕府松前藩の動き

写真は松前藩の家紋で丸の中にある菱型の紋で「丸に武田菱」。

松前嵩広

福山城(松前城)を建築した第12代藩主松前崇広(たかひろ)は、藩として初めて老中に就任した人物です。
西洋通であったため、文久3年(1863年)4月23日に寺社奉行に起用されます。その後、元治元年(1864年)7月7日老中格兼陸海軍総奉行になり、同年11月10日老中に抜擢されました。(明治まで後4年)

慶応元年(1865年)5月には第二次長州征討に徳川14代家茂の供をして京都、ついで大坂に至り、9月に陸軍兼海軍総裁となりました。

 

幕府は英・米・仏・蘭の4ヶ国と兵庫開港、大坂の市場開放を内容とする条約を締結。
しかし、朝廷から勅許が得られず、条約内容が履行されない事態が起きます。
4ヶ国は軍艦を率いて兵庫に進出、兵庫開港を要求となりました。

この事態を受けて、老中の阿部正外(まさと・まさとう)崇広は独断で兵庫開港を決定。
このため10月1日に朝廷は正外と崇広に対して官位の剥奪、謹慎を命ずる勅命を下します。
将軍・家茂はやむなく正外・崇広両閣老を免職し、国許謹慎を命じました。

崇広は慶応2年(1866年)1月に松前に帰還しましたが、同年4月25日、熱病により松前で死去。享年38。
跡を養子の徳広が継ぎます。

松前藩主13代目松前徳広(まつまえ のりひろ)

松前徳広

22歳で松前藩主13代目となります。
肺結核かつ重度の痔疾で、さらに精神病でもあったために政務を執れず、不満が藩にくすぶり、更に、藩は新政府方と奥羽越列藩同盟にそれぞれ遣いを立てる日和見政策を取っていたため、藩内の両派閥の不満がありました。

藩主となった年の11月に、徳広は藩主を退く発言をします。
筆頭家老の松前勘解由らは崇広次男の敦千代(松前隆広)の後継擁立を画策。
しかし、勘解由に批判的な勢力がこれに反発し、勘解由は家老を解任・蟄居となりました。ただし勘解由抜きでは藩政はままならず、慶応4年(1868年)4月に家老に復帰。

松前藩のクーデター

松前町にある法幢寺

慶応4年(1868年)7月、鈴木織太郎ら尊皇派の40名余家臣団が蜂起。
箱館の新政府方と連携し、正義隊を名乗って徳広に対し建白書を提出、佐幕派の一掃と勤王への転向を強要します。
徳広はこれを承諾したため、慌てた家老の松前勘解由は急遽登城しようとしますが果たせず、集まった1千名もの藩士と共に藩の武器弾薬庫から武器を出し、松前城の東にある法華寺から正義隊が立て籠もる城中への砲撃を企図するが、君臣の分を弁えよと説得され思いとどまりました。

翌29日に勘解由は家老を罷免されます。
8月1日に正義隊は佐幕派重臣らを襲撃、勘解由も屋敷を襲撃されるがこれは撃退。8月2日に自宅禁固となり、8月3日、勘解由は切腹となりました。
その他重臣の多くは正義隊の思うままに処罰され、正義隊により新たに合議局・正議局・軍謀局などが創設され、人材の新たな登用なども行なわれますが藩内は著しく混乱しました。

この状況の中、松前藩は箱館戦争(10月20日)を迎えることとなります。

松前藩主13代目松前徳広は明治元年幕府脱走軍の来襲で津軽にのがれ、明治元年11月29日死去。25歳でした。