明治9年 <Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)>

札幌・羊が丘にあるクラーク像

クラークの言葉、「Boys, be ambitious」は、よく知られています。
ところが、この言葉が月寒の羊ヶ丘展望台で言われたと思っている人が多いようです。

これは、札幌農学校1期生との別れの際に、札幌郡月寒村島松(恵庭の島松・島松駅逓所でクラークが発したものとされています。
当時は現在の恵庭市にありましたが、川を挟んで引っ越しがあり今の北広島市に旧島松駅逓所となりました。

 

この文言は、クラークの離日後しばらくは記録したものがなく、後世の創作によるものだと考えられた時代がありました。

クラークと中山の碑

1期生の大島正健(後の甲府中学校<現甲府第一高等学校>の学校長)による離別を描いた漢詩に、「青年奮起立功名」とあることから、これを逆翻訳したものとも言われていました。
しかし、大島が札幌農学校創立15周年記念式典で行った講演内容を、安東幾三郎が記録。安東が当時札幌にいた他の1期生に確認の上、この英文をクラークの言葉として、1894年ごろに同窓会誌『恵林』13号に発表していたことが判明。
安東によれば、全文は「Boys, be ambitious like this old man」であり、この
まま訳すと「この老人のように、あなたたち若い人も野心的であれ」という意
味になります。安東の発表の後、大島自身が内村鑑三編集の雑誌の記述で、全く同じ文章を使ったことも判明。また大島は、「クラーク先生とその弟子たち」
の中では、次のように述べています。
先生をかこんで別れがたく物思いにふけっている教え子たち一人一人のその顔を
のぞき込んで、「どうか一枚の葉書でよいから時折消息を頼む。常に祈ること
を忘れないように。では愈御別れじゃ、元気に暮らせよ。」といわれて生徒と一人々々握手をかわすなりヒラリと馬背に跨り、”Boys, be ambitious!” と叫ぶなり、長鞭を馬腹にあて、雪泥を蹴って疎林のかなたへ姿をかき消された。

この時に「Boys, be ambitious in Christ (God)」と言ったという説があります。また、「青年よ、金、利己、はかなき名声を求むるの野心を燃やすことなく、人間の本分をなすべく大望を抱け」と述べたという説もあります。

また、「Boys, be ambitious」は、クラークの創作ではなく、当時、彼の出身
地のニューイングランド地方でよく使われた別れの挨拶(「元気でな」の意)
だったという説もあります。
 
●内村鑑三は、「後世への最大遺物」において、「ものを教える」技能を有し教育で貢献する人物の例として挙げ、農学校時代にクラークを第一級の学者であると思っていたが、米国に渡ってみると、ある学者に「クラークが植物学で口を利くなど不思議だ」と笑われたほどで、「先生、だいぶ化けの皮が現れた」。
しかし、青年に植物学を教え、興味を持たせる力があったとして、「植物学の先生としては非常に価値のあった人でありました」と高く評価していました。