明治8年5月7日<ロシアと樺太・千島交換条約調印>
 
明治2年、北方開拓のために「開拓使」が置かれ、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島は郡制の中に組み入れられました。
樺太では、ロシアが日本の根拠地に迫ってきたため、樺太を北上して漁場を拡張しつつあった日本人との間に紛争が絶えませんでした。

ロシア人は確実に要所を狙って植民地を建設していくのに対して、日本は漁場の拡張に主眼を置いていたため、次第に圧迫されるようになります。

このような現状を打破するため、明治政府は明治7年に榎本武揚を特命全権大使としてロシアに派遣し、明治8年5月7日、ロシア全権ゴルチャコフ首相との間で「樺太千島交換条約」を締結しました。
この条約によって、「日魯通好条約」で両国民混住の地とされた樺太全島はロシア領となり、その代りに、ロシア領であったクリル諸島(得撫島から占守島までの18島)が日本の領土となりました。

しかし、北方領土の問題は蝦夷の時代にまで遡らなければなりません。

蝦夷の時代67 (近藤重蔵のロシア政策)