北海道人のルーツ 3 1866年(慶応2年)

 

ところが、城が完成した3月、幕府はアメリカ合衆国提督ペリーと日米和親条約を締結しました。

五稜郭建設の経緯

五稜郭(ごりょうかく)は、江戸幕府が蝦夷地の箱館(現在の函館市)郊外に築造した稜堡式(りょうほしき)の城郭です
(上の写真は、五稜郭の中に縮小して建てられた箱館奉行所です)
 
箱館山にあった箱館奉行所跡

1854年(安政元年)3月、日米和親条約の締結により箱館開港が決定すると、江戸幕府は松前藩領だった箱館に、6月箱館奉行を再置しました

箱館奉行所は前幕府領時代(1802年-1807年)と同じ基坂(現在の元町公園)で、この時も松前藩の箱館奉行詰役所があった場所に置かれました。

初代奉行の竹内保徳は松前藩の建物を増改築して使用する方針でしたが、続いて奉行に任命された堀利煕は、箱館湾内から近いし遮るものがなく、外国人が箱館山に登れば奉行所を眼下に見下ろすことになるため亀田方面への移転が必要と申し立てました。
これが受理されて五稜郭建設が決定します。

開港の箱館には英語の教授所やフランス語の私塾も設けられ、ロシア語はロシア領事や司祭が普及に尽力し、まことに多彩な町となりました。

箱館に入った西洋文明は数多く見られます。
西洋型造船、五稜郭を代表とする西洋式築城、西洋式農法、洋館建築、ガラス窓家屋、ストーブ、キリスト教の渡米、コーヒーの普及などなど、現在の函館が観光都市として人気があるのは、幕末の西洋文化が残っているためです。                                  

武田斐三郎

箱館奉行の中で武田斐三郎が果たした事業は重要でした。
その一つが弁天岬台場と五稜郭の設計です。弁天岬台場(砲台)は安政3年(1856)に着工して文久元年(1863)の完成まで七年かかりました。
皮肉なことに、この「弁天岬砲台の威力」が発揮されるのは外国の艦隊ではなく、箱館戦争の内戦時でした。明治29年に取り壊されるのですが、壊すのさえ大変な作業だったといいます。

五稜郭図面

五稜郭の築城は弁天台場の翌年(1857)に着工しています。当初から弁天岬台場に費用がかかり予算削減となります。そのため、武田が最初に設計したものは五稜郭の外側に半月堡(はんげつほ)とよばれる台場がつくられるものでしたが、この築城は一部しか作れませんでした。

築城の最大の課題は、箱館奉行所を箱館山麓では対外戦の時に大砲で狙い撃ちにされる危険から、低地の亀田役所土塁に移すためでした。さらに、予算の関係で亀田川の水を引いた掘の割りは、土壁ですませたところもあります。
しかし、どこから攻められても城側の死角がないこと、城壁をよじ登っても侵入不可能な利点がありました。

五稜郭の完成は1866年(慶応2年)でした。
ところが、完成からわずか2年後に江戸幕府が崩壊。その後、箱館戦争で旧幕府軍に占領され、その本拠となりました。明治に入ると郭内の建物は1棟を除いて解体され、陸軍の練兵場として使用されます。その後、1914年(大正3年)から五稜郭公園として一般開放され、以来、函館を代表する観光地となりました。

旧式日本式築城の最後が福山城(松前城)であるとすれば、新式様式築城の五稜郭が日本最初のものでした。旧式の最後と新式の最初のものが同時期に併存するところに、北海道の特徴があるといえます。