北海道へ志願して渡った士族たち 2

胆振国有珠郡(現伊達市・胆振総合振興局)

明治3年 仙台藩士・伊達邦成 

亘理2万3000石から130俵(58.5石)に減じられ、領地は南部藩の支配となりました。
亘理町(わたりちょう)は、現在の宮城県の南部、阿武隈川の河口に位置します。

苦悩する伊達邦成に、家老常盤新九郎(後の田村顕允)は、「このままこの地にとどまり祖先の名を辱めるより、主従一体となり蝦夷地に移住し、自活の道を開きましょう」と進言。

明治2年8月に胆振国有珠郡の分領支配を命じられ、翌年4月17日、邦成自らの手で開拓の最初の鍬が打ち下され今日の伊達市開拓が始まります。
以後集団移住は明治14年4月まで9回に渡り2,681名に及びました。

渡航から開墾、農機具に至るまで自費、粗末な居宅での越冬生活は筆舌につくしますが、さらに明治4年の新政府による支配罷免は亘理城再興の夢をも奪いさり、邦成は移民取締に、他の家臣は武士としてではなく、農民となって生きることを余儀なくされます。

こうした新政府の中央集権化に加え、凶作の日々が続きますが、伊達士族の気質と不屈の開拓魂は、邦成公のもとに固く結束して礎を築きはじめることになります。
伊達の街並みは築城法に則った城下町のつくり方で、士族開拓のまちの特殊性が出ています。

<今日の伊達市>

伊達市・武者行列

北海道にあって四季を通じて温暖な気候に恵まれていることから「北の湘南」とも呼ばれ、道内はもとより道外からも移り住む方々が増えています。

開拓時代をしのぶ記念館があります。「伊達市開拓記念館」で旧伊達市邸跡の七千坪の敷地内に伊達家から市に寄付された多くの資料を展示しております。
開拓記念館ボランティア「くわの会」では、訪れた方に迎賓館や記念館の説明を聞くことができます。

また、伊達市の夏の一大イベントである伊達武者まつりは、開拓の歴史と伝統を受け継ぐ市民参加のおまつりとして昭和48年から始まりました。
騎馬武者を始め総勢約330名の甲冑武者による「伊達騎馬総陣立(じんだて)」や、勇壮な武者絵の山車やパワーあふれる踊りが群舞する「伊達武者山車(だし)」など、武者づくしの多彩な行事が行われます。

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