<士族の廃業> 廃藩置県 廃業者194万人

明治維新により武家社会は終りました。
1868年に明治となりましたが、課題は山積していました。
何でも同じことがいえますが軌道に乗せるまでが大変で、明治10年までの10年間が歴史の大掃除でした。
このコラムは同じようなことを繰り返しますが、お付き合いください。

政府は、廃藩置県(明治4年)、田畑売買禁止の解除(5年)、地租改正(6年)と立て続けに封建的な土地制度を廃止します。

農民に土地の所有権を認めるとともに地価の3%を地租とする大改革でした。

旧藩では、士族を農工商の職業につかせることを奨励します。
明治6年より、家禄奉還を願い出た士族には就産資金や公債を保証、荒蕪地・山林等の格安払下げなどの制度を設けて士族の救済を図ります。
当時の武士階級は約194万人、明治2年に、約13万5千人もの士族が家禄を奉還、このとき払い下げられた土地は約8万5千haに達しました。
(これらの制度は当初東北の仙台藩には関係ありませんでした)

<士族の廃業>士族の反乱 最後が西南の役

今で言う士族の転業は、そのほとんどが上手く行かず破綻していきます。
当然、新政府に対する不満が噴出。

明治4年には、香川、岡山、兵庫などで暴動。福岡では6万人を超す大規模なものまで発生しました。
更に、組織だった反乱では、明治7年佐賀の乱、明治9年神風連の乱(熊本県)、秋月の乱(福岡県)、萩の乱(山口県)、そうして明治10年最後の反乱となるのが西郷隆盛率いる西南の役でした。
(これらの反乱については、再度、取りあげます)

これらの反乱に止めを刺したのが、明治9年の廃刀令と家禄の廃止(秩禄処分)でした。
しかし、新政府はこの対策として<士族授産>を展開します。

士族授産とは

1.開墾と移住の保護奨励
 内地の殖民・開墾(国営と助成)と北海道の移住・開拓
2.授産資金の貸与
 士族団体や結社に事業資金を有利な条件で貸与
3.就産資金の譲与
 家禄の返納と交換に就産資金を下付(譲与)
4.国立銀行の設立
 確実な投資の対象、士族事業に対する金融への途

この中で、政府が最も力を入れ、長期間にわたって(明治23年まで)実施されたのが開墾・移住の奨励と授産資金の貸与でした。

江戸時代も含めてこれまでの開墾(干拓)事業は、その多くが豪農や豪商によるものでした。しかし、条件の良い場所は、大規模な開墾がなされていました。
したがって、士族による開墾の多くは失敗に終わっています。
せっかく土地の交付を受けながら自ら開墾する意志なく、人を雇ったり他人に転売したりした士族も大勢いました。

開拓は北海道だけの問題ではありませんでした。移住開墾の困難に耐え兼ねて中途帰国する者、農民に売り払って転業する者、商人にだまされて土地を手放した者、あるいは真面目に開墾しても、経験不足から経営に破綻したり、逆にある程度の成功を収めて都会に転身したりと、士族授産による開墾地もそのほとんどが明治の終り頃には他の農民や豪商の手に渡っています。

武士が事業をやること自体が初めてのことで無理もありません。

海峡を渡る仙台藩士で成功を収めるのは藩主が自ら渡った藩でした。
これは時代は変わっても同じことが言えると言えます。