華族(かぞく)制度 

明治2年6月17日、版籍奉還と同日に出された行政官布達、従来の身分制度の公卿・大名の称を廃し、華族となることが定められた。

華族とは、1869年(明治2年)~1947年(昭和22年)まで存在した日本近代の貴族階級のことで、この華族の中からも、北海道に開拓を目指して入植した人たちがおります。

 

公家137家・諸侯270家・明治維新後に公家とされた5家、維新後に諸侯とされた家16家の合計427家は新しい身分層である「華族」に組み入れられました。

この後も新たな華族が加えられ、7月中に三度行われ、509の有爵者が生まれます。しかし、この内規は公表されなかったために様々な憶測をうみ、叙爵に不満を持つ者も現れた。

最初の叙爵 

公爵  

公家からは五摂家、武家からは徳川家宗家

公家からは三条家(三条実美の功)、岩倉家(岩倉具視の功)

     武家からは島津家宗家(薩摩藩主島津忠義の功)、
                      玉里島津家(島津久光の功)、
                    毛利家(毛利敬親の功)が公爵に叙せられた。

侯爵

公家からは清華家、武家からは徳川御三家と現米15万石以上の大名家

琉球国王であった尚氏

「国家に勲功ある者」として、木戸家(木戸孝允の功)、                   大久保家(大久保利通の功)

              中山家は中山忠能が明治天皇の外祖父であったこ
              とが考慮。

伯爵

公家からは堂上家

武家からは徳川御三卿と現米5万石以上の大名家

東久世家は東久世通禧の功。

武家のうち対馬藩主宗氏は朝鮮外交の担当者であることが考慮。

平戸藩主松浦家は中山忠能夫人が明治天皇の外戚に当たることが考慮。

西本願寺・東本願寺の世襲門跡家であった両大谷家も伯爵となった。

「国家に勲功ある者」として、伊藤博文・黒田清隆・井上馨・西郷従道

山県有朋・大山巌等といった維新の元勲達が伯爵に叙された。

子爵

公家からは伯爵の要件を満たさない堂上家

武家からは維新前に諸侯であった家が子爵相当。

分家で本家が高い爵位を持っている特例として子爵をあたえられた。

子爵を与えられた分家華族としては、近衛秀麿家(公爵近衛家の分家)、徳川武定家(侯爵水戸徳川家の分家(松戸徳川家))、松平慶民(侯爵福井松平家の分家)の3家。

「国家に勲功ある者」明治維新前後に活躍した者の家が子爵に叙せられた。

男爵

明治維新後に華族とされた家(附家老家、奈良華族等)が男爵相当。

押小路家・壬生家の2家は堂上家に準じて男爵を与えられた。

大社の世襲神職家14浄土真宗系の世襲門跡家4も男爵。

琉球王家の尚氏の分家であった今江家今帰仁家の2家も男爵。

「国家に勲功ある者」として、明治維新前後に活躍した者。

公家の叙爵にあたって家格はある程度考慮。

武家は徳川家以外は石高のみが選定基準となった。