畚部岬(ふごっぺみさき)

ここは、今度訪れた時に時間を取って回ってみたいと思います。いつも、通り過ぎていました。

畚部は「ふごっぺ」と読みます。フゴッペはアイヌ語の地名で語源は「波の音が大きいところ」「番をするところ」などではないかといわれています。
しかし、「畚」は初めてお目にかかりました。漢字辞典で調べてみると、音で「ホン」と読み、訓では<ふご>
<もっこ>、なわなどで作り、土や石などを運ぶ道具とありました。アイヌ語の当て字といっても大変な作業だったと思います。

畚部岬は余市町と小樽市の境界になっています。フゴッペトンネルは上りと下りに分かれており、札幌を起点とする国道5号は小樽から余市間は国道229号と重複しています。

下記は、お借りしました。

明治時代以降の畚部村の範囲は、海岸線では小樽市蘭島との境界である現在のフゴッペトンネルから、大川町手前までの広い範囲をしめていました。
昭和2(1927)年10月8日、国指定史跡フゴッペ洞窟の線路側の岩肌に、顔のかたちをした岩塊と人の形を線で描いたような刻画がいくつか見つかりました。発見したのは、国鉄(当時)蘭島駅保線勤務の宮本義明さんで、保線工事の土砂取り作業をしていたときのことでした。
余市町出身のアイヌ民族の歌人、違星北斗はこの「フゴッペの古代文字」を指して「奇形文字」と呼び、氏の著書である『コタン』中の1章「疑うべきフゴッペの遺跡」で、「我等アイヌにとっても奇怪な謎であった」と述べています。
フゴッペの語源や付近に住んでいた人々についての言及があります。そこには「鍋を持たない土人(原文ママ)がゐて生物ばかり食べてゐた」ことを理由にして、その土地を余市アイヌは「フーイベ」と呼んでいたこと、また同じ土地を指して、そこに蛇がたくさんいたので小樽市忍路のアイヌ民族は「フウコンベツ」と呼んでいたともあります。

違星がアイヌ民族の古老に聞いたことに、フゴッペにはアイヌ民族とは別の人たちが住んでいて、彼らを「クルプンウンクル」と呼んでいたのだそうです。
「クル」とは「岩」で、「あたかも水際の岩の下にでもゐるような人種」の人々が住んでいたという伝承を違星が聞いています。
フゴッペ岬の先端近くにはフゴッペチャシ(チャシ:アイヌ民族の設けた施設で砦、館、柵、柵囲いを示す)があったという伝承も残っています。そこには、兄のリコマアイヌ、弟のラワンケ、妹のコクッテシマツという兄弟が住んでいました。彼らは意地悪で、岬の近くを人が通ると上から石を落として悪さをするので、忍路と余市のアイヌ達は何とかその兄弟を追い払いたいと考えていました。ある年の春、ニシンが大量に浜に寄せました。
忍路アイヌの一人がフゴッペチャシの崖近くを通った時に、キラキラ光るニシンの鱗が一筋の線になってチャシの方へ続いているのを見つけました。それはリコマアイヌ達がニシンを束にして結わえたものを担いで登った跡でした。この跡をたどって余市と忍路のアイヌの人たちがチャシを攻めて兄弟を殺したので、それ以降、そのチャシは使われなくなったといわれています(『アイヌ伝承と砦』)。