ジュウボウ岬

川白岬かわしらみさきを過ぎて窓岩トンネルを抜けると見晴らしが良くなります。
ノット川を渡るとオブカル石地区に入ります。明治時代にはニシンに湧き、賑わいを見せていましたが、今は廃村です。しかし、歴史の古い村で、明治17年に寺子屋ができ、大正6年に安内尋常小学校、昭和22年には村立の安内小学校がありました。小学校の跡地に「あんない展望公園」があり歴史を刻んだ「心勿忘の碑」「親子像」が残されています。

写真で分かりますが、ジュウボウ岬は西の河原トンネルで通過してしまいます。神威岬まで10キロの地点で、神威岬から見ると岬が先端に見れます。この突き出した半島を描いた絵があります。

「地獄の賽の河原」
1856(安政3)年、松浦武四郎の『蝦夷日記』には「西院の河原と和人が呼ぶ地有り」との記述があります。
蝦夷の時代、積丹半島しゃこたんはんとう一帯は船の往来の難所で遭難が多発し、船乗りの間では地獄の賽の河原と呼ばれて恐れられてきました。浜辺には打ち上げられたまま放置された難破船の残骸の一部が今も見られるといいます。
遭難者の霊を祀るための地蔵が建てられたことが始まりで、現在では地蔵堂をはじめ、マニ車、燈籠や浜辺には多くの石が積み上げられ、賽の河原を具現したかのような異様な雰囲気を漂わせています。

地蔵に関する言い伝え
「難船で妻子を亡くした男が、浜辺に漂着した流木を鰊粕にしんかす(※)を作るための薪にしたがうまく燃えず、海に流しても再び浜辺に打ち上げられるのを見て、その木に妻子を刻み、祀ったことに始まる」
※茹でたニシンから油を搾り出し、搾りかすを醗酵・乾燥させたもの。高級な肥料として珍重されていた。

1996年10月に積丹半島を周遊する国道229号が完成し、海岸沿いが整備されるまでは船でしか行く方法はない秘境といわれていました。