早玉はやたまさま

むかしの話です。
それは、夕方ごろから強い浜風が吹き出した。五月の末のある晩のことでした。
「こんな晩こそ、火の元に気をつけなくては」という祖母のことばに、家じゅうの見廻りを念入りにすまして、眠りにつきました。
風の音におびえながら、とろとろと眠りに入ったとたん、耳が破れるかと思うような、戸をたたく音に起こされました。

「たいへんです。たいへんです。火事です」
「土蔵が火をかぶっています。早く来てください」

「それはたいへんだ」と、飛び起きて、手早く身支度をして、かけつけてみますと、一番右端の蔵のそばの家が夜空に火柱をたてて燃え、雨のような火の粉とともに、火のついた木切れが、ボーン、ボーンと蔵の屋根に飛び散っています。

「早く蔵をからめえー(戸を閉じること)。中に人をしめこむなあっ(閉じ込めるな)」
祖父の声に、えいえい声で、土戸を閉める者、みそ樽からみそを出して、戸のすき間にぬる者、誰もが、煙と火の粉にむせながら、必死の働きでした。そのうちに、「蔵に火がうつるぞうっ」「一番蔵が、あぶないっ」という叫び声があがりました。

みると、蔵の屋根に、吹き飛んだ大きな火の粉やもえ木が、野鞘のざや(蔵の外壁を、雨や雪で汚れないように守る板)や止木とめぎ(野鞘がはずれないように止めてある木)にひろがりこみ、そのあたりを、チョロチョロ赤い舌がなめはじめたと思ううちに、浜風にあおられ、どっと燃え上がり、一番蔵の三方の野鞘のざやはいっせいに火を吹き始めました。

野鞘のざやを落とせ。屋根に上がって、つきくずせ」
祖父の必死の叫びで、いしごが二丁、三丁、一番蔵にかけられましたが、この火の粉と火の勢いでは、顔をむけてのぼれません。

「一番蔵は、落ちる」誰もが、そう思いました。

もしも一番蔵に火が入れば、その火の熱で、二番蔵も、三番蔵も燃え上がることでしょう。その結果、全財産を失うことになるのです。

さすがの祖父も、「もうこれで、我が家も終わりだ」と、炎のおの夜空をあおいで、覚悟をきめたそうです」
その時です。一番蔵と二番蔵の間から、一つの人影が、するするっと屋根に這い上がりました。
茶色の布で頭をつつみ、長柄のとび口をかいこんで、きらきら輝くひとみで、三方から上がる火の手をきっと見すえたかと思うと、燃えている野鞘に、とび口※※を突き立てました。
「あぶないっ」「あぶないっ」ガラガラッと音をたてて崩れおちる野鞘、そのたびに舞い上がる火の粉、ゴーッと吹き上げる浜風と火の手。
ブスブスと燃え上がる服の火を払い落し、たたき消しながら、一番蔵の屋根むねを、とび越え、とびちがい、駆け回って野鞘を突き落とすその働きは、とても人間技とも思われませんでした。

これに励まされて、今まではしごの下でひるんでいた人たちも、ようやく屋根にとりつき、力をあわせて、火をふく野鞘のかき落としにかかりました。
こうして一番蔵から二番蔵、二番蔵から三番蔵と、あぶないところを火の手から守り通してほっと一息ついたときは、夜もようやく明けて、はじけかった浜風も、朝なぎ※※※の時刻となっていました。

「蔵が、町の大火になるのをくい止めてくれたんだ」
「それにしても、よくまあ防げたなあ」

焼け残った蔵の前で、すすと煙に汚れた人々が、ねぎらいの酒を酌み交わし、口々にこういいながら、あの目覚ましい働きをした人を探しましたが、どうしたことか、この中からは、ついに見つけることが出来ませんでした。

「それにしても、あの人の働きがなかったら、大変なことになるところだった」
「よくよく、お礼を申し上げなくては」
と、祖父は、手伝っていただいた家を、一軒一軒廻ってお礼を述べながら、あの人のことをたずねましたが、誰も、「さあー」と、首をかしげるばかりでした。

疲れ果てて帰ってきた祖父は、昨夜からの騒ぎで、毎朝の、早玉稲荷様はやたまいなにさまのお参りをまだしていないことに気が付きました。さっそく、お米とお水を盆にのせ、屋敷のすみの小さなお社の前に行き、扉を開いてみて驚きました。
煙と火の粉で、真っ黒にこげたご神体しんたいが、きらきら光る瞳で、一番蔵のむねを、じいっとにらんでおられたとのことです。

※とび口=柄の先に、トビのくちばしのような鉄のかぎをつけた、ものをひっかける道具。消防や材木の運搬に使う。

※朝なぎ=海岸地方で、朝のひととき風がやむこと。陸風から海風にかわる境目にあたる。