さらしものになったクマ

クマはたくさんいましたね。なにしろクマがもともと住んでいた土地に人がやってきたんですから、出合うのがあたりまえです。早くここに来た人で、こわい目に会わなかった人はいないでしょうね。

茂八もはちという猟師りょうしがおりました。前に琴似ことにの方でクマと取っ組んでようやく逃げてきたこともあったほどの腕利きでしたが、茂八の小屋に行った時、畳二、三枚分の大きさのから、五、六尺(一尺は約30㎝)ぐらいの大きさのクマの皮が9枚もあって、みな自分でとったということでした。その茂八でさえとれないクマが一ぴきおりまして、それを猟師仲間で「背だるみ」と申して札幌の主だと評判でした。たいていのクマの背筋はまっすぐなもので、背筋にこぶがあるように弓なりになっているのは少ないんだそうです。

それで、ある晩のことでした。わたしの小屋の回りをガサガサって歩くものがいるんです。その時分のことで、人間がうちに来るはずはない。これは話に聞いたクマだろうと思うと、いい気持ちじゃありませんでした。ただ茂八からかねがね聞いていたことを思い出しまして、クマが来たら火をどんどんたけば逃げていくものだから、小屋にはけっして火をたやさぬようにというこで、すぐに火をどんどんたきましたら、そのまま音はなくなりました。
が、翌朝外へ出てみましたら、大きなクマの足あとが小屋の回りにたくさんありました。その大きさは二斗樽(一斗は18㍑)のふたよりよほど大きく、後ろ足も二尺はありましたろう。

こんな話のほかにも、川へ水くみに行ってクマとばったり出会って、腰がぬけそうになってもどってきた人はたくさんいたようです。ただ、シカと違ってあまり畑を荒らすような悪さもしませんし、人を襲うようなこともありませんでした。

ところが、明治の初めのことでした。丸山まるやまの火薬庫のわきからすごいヤツが暴れだしまして、町じゅうはもちろん、近くの村でも大騒ぎになりました。夜など恐ろしくて外など歩けませんでした。
そのクマは丘珠村おかだまむらで炭焼きをしていた夫婦と赤ん坊一人の家を襲いまして、寝ていた父親を食い殺し、赤ん坊をかかえて逃げようとした母親にも飛び掛かり、赤ん坊は食ってしまい、母親の頭につめを立てて髪の毛もろとも頭の皮を剥ぎ取りました。母親は、大けがをしたまま近くの家に駆け込みましたので、大騒ぎとなり、役所ではすてておかれず、鉄砲の名人といわれた森さんという人をはじめ、屯田兵の中から腕っぷしの強いのを二十人ほど選んで、クマ退治をさせました。

この人たちが、雪の上のクマの足あとをたどりたどり、あちらに追い、こちらに走りして二日目、篠路村しのろむらの林の中で昼寝していたこの悪グマを森さんがうちとめたのです。これを屯田兵たちが札幌の町までかついできて、警察の前に、人を殺したクマがこうなった、ということをクマの横に書きしるして、さらしものにしました。

しかし、これは変なやりかたじゃないでしょうか。人間どもが珍しがって見たところで、これでこりて、クマに殺されないってことはないわけですし、人を食うとこうなるぞって、クマたちに見せしめにするためだったとしてもね、そのとき見に来たクマは一ぴきもいなかったのですからねえ。