兜とを海神に捧げて―厚沢部町ー

松前藩城跡

300年続いた徳川幕府が倒れてから、日本中の大名は徳川に付くか朝廷に付くかで大騒ぎになりました。松前藩は朝廷に付くことに決まりましたが、榎本軍が江戸から軍艦に乗って攻めてくると聞き大変です。
海から攻められると弱い松前城に変わって、山の中に城を作ることになり、夜、昼なしに工事が続けられました。人出が足りないので、女の人まで丸太を担いだといいます。
しかも、この城は建物があっても石垣がなく、ただ、打ち込んだ丸太で作った柵だけで、頼みは城を挟んで流れる二本の川だけでした。おまけに、建物の壁さえ、まだ乾いていなかったといいます。

松前城は、明治元年11月5日に落とされ、殿様は6日に、館の城に移りましたが、敵は勢いにのり、15日にはここも落とされました。

熊石に逃れた殿様の一行は、19日に船で青森に渡ることとなりましたが、丁度11月で、船は陸に上げられ、囲われています。
心熱い漁師の手で荒波の海に浮かべましたが、水が漏りますので、家来や女中の着物を裂いて、穴に詰め、やっとの思いで乗り込み、陸の榎本軍を警戒しながら、津軽海峡にさしかかりました。

ところが、海峡の真ん中は、竜飛・白神の両方から流れる潮で渦を巻き、風と雪が加わって、青森の島影を見ながら、進むことも退くことも、出来なくなりました。

もうこれまでと、一同が覚悟を決めた時、

「宝物を、海神に捧げたならば」

ということが、言い出されました。

そこで、殿様の命令で、この戦いの最後まで、大切に守っていた松前家に伝わる金の飾り(前立)の付いた兜を取り出し、はるかな松前の山影を拝み、先祖の御霊にお許しと、お別れを告げてから、荒れ狂う波に、ザンブと投げ入れました。

すると、不思議にも風は止み、船は渦を乗り切り、潮に乗って、矢よりも早く青森の平館に着くことができました。

しかし、代々守ってきた土地を、やすやすと敵に奪われたことを、深く感じた松前藩主は、朝廷におわびして、弘前の薬王院で切腹しました。

まだ、25歳の若さであったといいます。

松前藩の歴史は下記です。こちらもご覧ください。

蝦夷の時代85(松前藩第13代藩主松前徳広)

蝦夷の時代89(箱館戦争)

蝦夷の時代90(松前藩最後の藩主・第14代松前修広)